掲載日:2023年1月18日
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「百余軒の貸家を失う」 武山 善治郎(たけやま ぜんじろう)
私の家は、大正13年に親の代からここ蛎殼町に移り住んで、傘の製造販売業を営み、今に至っている。
私は、昭和15年12月1日に、東部52部隊歩兵第1連隊に召集され、北支、満州、インドネシアのスマトラ、そしてシンガポールと移動し、シンガポールで終戦を迎えた。だから、私は戦災を全く経験していない。
また、父母も、昭和17年、私が出征してから1年半ぐらいで家業の傘製造販売業をたたんで、長男の住む岐阜に疎開していた。
空き家になった母屋も人に貸していたが、当時、私の家は蛎殼町を中心にして100軒ほどの貸家を持っていた。このため、空襲による家族自体の被害は全くなく、また、空襲の様子も見ていないが、我が家から貸家まで、戦災での物的被害は大変なものだった。
蛎殼町の戦災の模様は、復員してから、当時、町に残っていた人たちからいろいろ聞いているが、一人ひとりが大変な体験をしたらしい。
復員してきて見た東京から想像もつくが、戦後、復興期のドサクサで受けた町の人たちの被害も大きい。
戦災後、焼跡に直ぐバラックの小屋を建てて商売をしていた人もいたが、多くの人は年寄りや子供のためも考えて、身寄りを頼って疎開していた。その人たちの焼跡の土地に無断で家を建てられたり、居座られたりした被害者がかなりある。
どこの町でも同じようだが、戦前と戦後では、町の人が半分以上替わっているように思われる。なかには戦争で家族を失った上、家も焼かれてしまったので、その土地を泣く泣く安く処分していった人もある。
私の場合は、多くの貸地・貸家があったが、100軒ほどの貸家は大方戦災で焼かれ、その焼跡に無断でバラック小屋などを建てられたところもあった。
復員して来た私を待ち受けていたのは、無断占拠した人からの借地解放であり、東京・小岩にあった土地は取り上げられ、貸家のあったところの土地もほとんど安く手放してしまった。
そのようなことで、元の蛎殼町に戻っての家業の傘製造販売業の再開はたいへん苦労させられてしまったが、戦災で尊い生命を落とした人々から見れば、それは小さな苦労であったかも知れない。
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