掲載日:2023年1月18日

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「疎開先の方々の暖かい心に感謝」 堀井 隆三郎(ほりい りゅうざぶろう)

私が千代田国民学校の児童たちを引率して埼玉の疎開先へでかけた時には、『これはたいへんなことだ、再び東京へ帰ったり、自分の郷里へ帰ったりすることはあるまい』と思ったものです。
子供たちは昭和19年の8月27日に東京を出発したのですが、疎開先の学寮のあった現在の「飯能市」は、当時は南高麗村(みなみこまむら)といいました。
千代田国民学校では、学童集団疎開を実施する前に縁故疎開をうんと奨励したんです。あの頃、全校で1、100人くらいの児童がいたのですが、戦局がだんだん悪化してくるとともに、最終的に学校に残った児童は320~330人くらいになっていました。その子たちを連れて学童集団疎開に行ったのです。
疎開先の学寮は、飯能を中心とした5つの寺に分散されました。
先ず、飯能の在の高萩の宝蔵寺には5年生の女子が主体、飯能の1つ手前の加治村の円照寺に4年生の男子、ここに千代田国民学校の疎開の本部がありました。南高麗村の下直竹の長光寺には4年生の女子と5年生の男子で、疎開当初は64、5人いたと記憶しています。5年生の男子が40人くらい、女子が20人くらいでした。それから名栗の入口にあった楞厳寺(りょうごんじ)に6年生の男子、名栗の奥の龍泉寺に6年生の女子。この楞厳寺と龍泉寺の疎開学童は最終学年の6年生でしたので、昭和20年の3月にみんな卒業してしまい、先生方は他の残ったお寺に配属されて行きました。
私たちが疎開した直竹はちょうど鰻の寝床のように細長い村落で、物資が特に豊富にあったわけではなかったのですが、村の人たちが非常に好意的で、疎開に行った当初は月曜日から日曜日まで、それぞれ村の各農家が交替で野菜等を供出してくれたのです。曜日によって出してくれる場所がわかりますので、昼頃になると子供たちと一緒に大八車をもって運びに行ったものです。
学寮も初めの頃は子供たちが給食をとる食堂などは特になくて、お寺の庫裏で賄っていました。ところが、父兄たちがそれではあまりに不自由だというので、風呂場と食堂と調理場をつくろうということになったのです。昭和20年の2月頃にそういった話があって、3月には、もうその建物ができました。
直竹の周辺は木材が豊富な所でした。それに加えて、もう亡くなられていますが清水邦造さんという非常に義侠心に富んだ方がいらして、「先生、とにかく材料だけ集めれば、工賃なんてわしらはどうでもいい。とにかく親元から離れて日本橋から来ている子供たちのためなんだから」とたいへん好意的にその建物を建ててくださった。この時の費用は父兄たちの寄付によるものでした。
その建物ができてから学寮の運営はたいへん助かりました。それから清水邦造さんだけでなく、その頃の農業会の会長の朝日義輔さん、24年間飯能の市長をなさっていた市川宗貞さんは当時地元の森林組合長で、この時の木材の供出をしてくださった。そしてその下に後に飯能の実業家になられた木崎和三郎さんという方がいらして、当時は市川さんと一緒にお仕事をなさっていました。いまでもよく憶えているのは物資の配給係の平井さん、農協の配給係の清水さん、それから駐在所のお巡りさんの中村さん、こうした方々が実によく学寮の面倒を見てくださった。

それから寮母には、朝日義輔さんの娘さんと吉田さんという方がなってくださったのです。はじめは五十嵐さんという方が日本橋から一緒にいらしていたのですが、途中でこの方が健康を害してしまい、地元の方にお願いしたわけです。そういったことも地域の方々の協力を得られた原因の1つだったと思います。
学寮の組織は、私が寮長で、私の下に女の先生が初めの頃は1人、後に2人に増えて、寮母さんが2人、作業員(給食婦)が3人という構成になっていました。寮母さんも給食婦さんも女の先生方も本当に親身になって子供たちの面倒を見てくれました。
授業は、地元の国民学校に日本橋の千代田国民学校から机とか椅子とかを60人分余り卜ラックで運び込みまして、1教室借りて行いました。4年生は人員が少なかったので、初めの頃は地元のクラスの中に入れてもらったりしました。
そうこうしているうちにだんだん戦局があやしくなりまして、疎開も後半になりますと、寺の廊下に興津の臨海学園で使っていた給食の膳を持ってきて、午前中こそ寺で勉強しましたが、午後は勉強らしい勉強もできなくなっていったのです。
その頃になりますと私自身が食糧の確保に追われるようになっていました。
作業服を着て、肩から雑嚢(ざつのう)を下げて、自転車に乗って飯能の町や隣の成木村まで行き、何かめぼしいものがあれば、野菜であれ豆腐であれ、豆腐のおからでも、たとえほんの少しでも手に入れて、自転車の後ろに積んで学寮へ帰ったものです。
また、幸いにも入手できる食糧の量が多い時には、「後で子供たちが取りに来ますからお願いします」と言って頼んできたり、飯能の市場へ行っては業者の人にお願いしたこともありますし、飯能からリヤカーで運んだことも幾度もあります。当時を振り返ってみれば、私自身はいかにして子供たちにひもじい思いをさせないですむか、という気持ちで一杯だった気がします。

疎開に出る頃、私は妻帯したばかりだったのですが、実は父兄たちの配慮もあって後から疎開先に家内がやってきたんです。疎開先の学寮の近くの山の麓に徳蔵寺というお寺があって、そのお寺の住職さんが地元の小学校の先生をなさっていました。その方が、「先生、うちの寺の一部屋が空いているから、うちに来てくださいよ」とおっしゃってくださいました。ご好意に甘え、私たちはそのお寺の1部屋を借りまして、自分たちの荷物をそこへ移しました。長男が生まれたのは昭和20年の12月14日、赤穂浪士の打ち入りの日のことでした。
この子は直竹の直をとりまして、直一と名付けたんです。この名前は、「先生に子供ができたんだけれども、何という名前をつけたちいいかな」と、一緒に風呂に入りながら子供たちに相談したら、「先生、直竹学園で生まれた最初の子だから直一がいいんじゃないか」「そうか、それじゃ直一とつけようか」なんていうことでね。
疎開中は、夜だけは家へ帰りましたが昼間はほとんど子供たちとすごしておりましたから、疎開先で家内に子供ができてもあまり顧みる余裕はなかったですね。家内も心細かったでしょうが、村の人たちが非常によくしてくれましたし、寮母さんたちもよく面倒をみてくれまして、今でもたいへん感謝しています。
地元の人たちとうまくいったのは、疎開した先が農村で、私自身が百姓の出だったこともあったかもしれません。畑の中の道を歩きながら地元の農家の人たちの仕事を見ていて、『大根の種を蒔くために、下地に肥やしを置いているな』とか、『ああ、いまは大根の間引きをしているな』とかよくわかるわけです。そのうち地元の人たちも気軽に話かけてくれるようになり、こちらも話ができるようになると、「なんだ、都会の先生にしては珍しく農業の事をよく知ってるな」なんてことになりましてね。

日本橋あたりの人は町場で育っていますから農業のことを知らないのが普通なのですが、私は疎開先で芋をつくったり、小松菜の種を蒔いたり、たくわんを漬けたりしていましたので、地元の方々が「先生はよく百姓仕事を知っているな」と驚いていましたよ。そういうことが重なって地元の方々に親近感をもっていただけたんじゃないかと思います。
子供たちの話の中にも疎開先の便所のことがありましたが、都会の子供たちがよくああいったことに慣れたと思いますね。私が初めて千代田国民学校に赴任した時、すばらしい水洗トイレだったのでびっくりしたものです。私は豊島師範を出たのですが、師範学校でも汲み取り式でしたし、当時はどこでも汲み取り便所が多かったですよ。ところが、その頃すでに千代田国民学校も子供たちの家庭も水洗式だったですね。
当時はどこの農家も人糞を肥料にしていたんです。私の家は田舎の百姓でしたから、汲み桶があって家の者が柄杓で汲み出すわけです。私は小学校の頃から親父についてそれをさせられていました。いやな仕事ですよ。でも、それはだれかが必ずやらなくてはいけない仕事だったんです。
飯能の近くの農家の人たちも、最初のうちは学寮の便所の汲み取りに来たんですが、そのうちそういった人たちも忙しいものだからなかなか来てくれなくなった。
私たちの学寮は、山の麓の所に寺の本堂があって、その山よりのところに便所をつくったわけですが、山の水がしみこんできて、いつのまにか溜めが水で一杯になってしまうんです。ですから何回となく汲み出さなくてはならなかった。私が汲み出していると子供たちがびっくりして「先生、そんなことしなくても・・・・」と言ったものですが、そのうち「じゃあ、先生が片方を担ぐから、君たちはそちらを担ぎなさい」と言いまして、一緒にやっているうちにだんだん子供たちも慣れてまいりまして、しまいには子供たちも汲み取りができるようになっていました。
人のいやがる仕事をいやがらずにできる人間になってほしいと、そんな願いが私の中にあったのですが、子供たちはそれをよくわかってくれて、本当に嬉しかったですね。疎開経験をしてきた子供たちは、それまでは何不自由ない都会の子供だったけれど、あの当時の苦労を知っていますから、大抵の苦労には耐えられたのではないかと思いますね。

疎開の初めの頃は、父兄たちが油や干物や鰤(ブリ)等をもって学寮に来たものです。ところが昭和20年3月10日の大空襲があってから、それがぴたりとなくなった。というのは自分たちの生活そのものが大変なことになってしまったわけですからね。ほとんどの疎開児童の父兄が罹災されました。その中でも小松君という子の家は一家全滅だったんです。
あの時は、小松君に、いつ3月10日の大空襲で家族が全員亡くなったと言う事を話そうかと、非常に苦慮しました。私は子供たちの実家の罹災状況を確認するために、空襲の日から3、4日経った時に飯能から両国まで調べに行ったんです。それで、小松君の家の罹災証明だけが出ていないという事を知りました。当時、東両国の駅の近くに界隈の事務をとっているところがありました。私は、そこへ行って聞いたんです。そうしましたら「小松さんのお宅はいまをもっても移転証明を取りに来ていません。その家のあたり一帯は全焼して焼け野原になっています」というのです。『これは・・・・』と思ったですよ。
飯能に帰って3週間ほど経った頃、名栗まで連絡に行く用事がありまして、私は自転車で小松君を連れて行きました。名栗へ行く途中に峠があるんですが、その峠のところで「小松よ、この間の大空襲の後、東京へ行って、君の実家がどうなっているか調べてきたら、君の家の罹災証明が出てなかったんだ。その後、他の父兄にもいろいろ聞いたが、小松君の家族の消息はまったくわからないと言うんだ・・・・・」と話しましたら、「先生、わかりました。両親は死んだものと思います」と、小松君は泣きながら答えたんです。私は思わず小松君の手をしっかり握りしめました。
小松君の家は、ナフタリンの会社を手広くやっていたんです。もし、疎開に来ていなかったら、小松君も亡くなっていたかもしれない。幸いに小松君の姉さんが埼玉に嫁いでいまして、姉さんに子供がなかったものですから、小松君を引き取って、自分の子供のように育てました。でもその後、小松君は本当に頑張りました。慶応大学に入りまして、いまは大きな会社の工場長になっています。
学寮の中にも家族のうちのだれかを亡くした子は何人かいましたが、一家全滅というのは私の記憶では小松君のところだけでした。小松君にはすぐ近くに姉さんがいてくれたことが大きな支えとなったのですね。私は集団疎開を解散する時に、誰も引き取り手がなかったら、と言うことが1番心配でした。もちろん日本橋区にしても東京都にしても、そういった子供の場合は何か方策を考えていたでしょうが、幸いなことに私のところでは引き取り手のない子はいなかった。その点だけは良かったと思っています。
それから、いま思い起こしても、戦時中に決して裕福とは言えない村で、私たちを快く迎え、支えてくれた疎開先の方々の親切や暖かい心に対して、有難いという気持ちで一杯です。

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