掲載日:2023年1月18日

ページID:732

ここから本文です。

「鉄筋のビルで焼けずにすんだ」 中田 多嘉子(なかた たかこ)

私は2月25日昼間の空襲から、3月10日の大空襲、そして4月4日と5月の爆撃まで、ずっと同じ所で体験した。

私のところは「イーグル・ビル」といって鉄筋コンクリート5階建てを住居兼店舗にしていた。このビルは関東大震災後、東京市からの助成金で建てた本格的な耐震耐火建築で、このおかげで最後まで焼けずにすんだのだと思う。

私の家は「イーグル」の商号で、大学ノートなどノート類の卸問屋だったが、紙製品が戦時統制になり、店員も徴用で1人もいなくなり、商売は開店休業同然だった。

ビルの3階までが店舗で、私たち一家は、4階に祖父母、母とお手伝いさん、5階に、前年2月に生まれた長女紀子(主人は18年に出征していた)と私の2人が寝泊まりしていた。

2月25日の昼間の空襲で、横山町から馬喰町一帯が相当焼けたが、ビルが浅草橋交差点、に面した角にあったこともあって、延焼を免れた。

自分のことは忘れたが、この日、両国2番地の七条洋紙店が焼夷弾の直撃を受け、ご家族お2人がご他界という悲しい出来事ははっきり覚えている。

七条洋紙店は、父が東京に出てきて初めて勤めたところで、その後独立してからも親戚同様に親しくさせていただいている。焼夷弾で全焼した後、ご一家のみなさんが行方不明というので、祖父母も私も心配した。社員の方々と焼跡を整理したところ、地下の防空壕の中で亡くなられていたことがわかった。この少し前に、先代が病気で亡くなられたばかりで、先代の奥様が遺骨をお抱きになったまま、お嬢さんと一緒に壕の中で発見された。
アッと言う間に火事になったので、外に逃げだせなかったということだった。

現社長(ご子息:七條達一様)は兵隊に行っておられたが、戦地でこれを知られたら、どんなに悲しい思いをされたことか。だが、その頃は連絡もできない状況だった。

3月10日のことは、あれから45年経った今でも、はっきり記憶に残っている。

あの夜は、2度空襲警報が鳴った。1度目はすぐ解除になったので、2度目に鳴った時「また、解除になるんだろう」と、呑気にまた寝てしまった。

「何を愚図愚図してるんだ。もう爆弾が落ちてきてるんだぞ。紀子を連れて、早く地下室に入れ」階下から怒鳴る祖父の声で起こされた。父は町会長で防護団の団長をしていたので、警戒警報が出ると、警戒のため外に出ていたのだが、あちこちが燃えだしたのを知って、急ぎ我が家に戻ってきたのだった。2度目の警報が出る前に、もう東京には焼夷弾の雨が降っていたのである。

20坪ほどのビルの地下室はそっくり防空壕になっていた。「息子が戦地に行っている間に、孫や娘にもしものことがあったら」と、父が念入りに補強したのである。

地下室は部屋の壁に沿って土嚢を高く積み、中に畳を敷き、缶詰などの食料品、ローソクや薬などが備えてあった。

1階は出入り用を除く全部のシャッターを下ろし、それを外から太い松材で囲った。材木の根元には、自転車の古チューブに砂を入れたものを何重にも巻きつけてあった。2月の空襲以来、警報が出る度に、私たちは必ず、この爆風対策を行うようになっていた。私と紀子が防空壕に入るのを見届けて、祖父はまた外に出て行った。祖母と母は「どうせやられるなら、どこにいても同じこと」と言って、祖父がいくら言っても、4階の自分の部屋を動こうとしなかった。

ビルの隣は、細い路地ひとつ隔てて「化粧品商業会」の鉄筋3階建てビルだった。うちのビルの1階から5階まで路地に面した小窓があり、祖父は「もし隣が火事になったら危険だ」と言って、その窓をトタン板でつぶすように足場を組ませていた。その作業が終わらないうちに、焼夷弾攻撃を受けてしまったのである。道路側のたった1つの窓は内側からトタン板を打ちつけた。4階に残っていた祖母と母が死守して、火の入るのを防いだ。地下室にいても焼夷弾が近くに落ちてくるのがわかった。ヒューッという音は風を切る音だった。遠くを電車が走るような、ゴウーッ、ゴウーッという音も聞いたが、あれも落ちてくる音だったのか、それとも家の燃える音だったのか。

そのうち、隣の木造の家が燃えだし、隣のビルも燃えだした。今度は、近くを大型電車が走っているような轟音だった。明け方近かった。

「もう、いまさら逃げだすこともできない」「焼けないように」という、運を天に任す心境たった。外へ出ても行く場所がない。

地下室では、「すごい」「こわい」とか、「大丈夫だろうか」「このビルが駄目なら、どこへ行っても駄目さ」などと、初めは皆が口に出していたが、やがて言葉少なくなった。

電気が消えたのはいつだったのか。ローソクをつけた。電気が駄目になって、ラジオも聴けない。暗然たる思いで、みんな黙りこくってしまった。

うちのビルにいた人は、多い時は5、60人を超しただろうか。初めから避難してきた近所の方が数十人いた。自分の家が焼けて、あとから来た知らない人が何十人もいた。地下室に入りきれず、1階から4階まで、大勢の人で一杯だった。

名前を呼ばれて気がつくと、祖父が傍にいた。「もう、こんなに焼けては、手の出しようがない」と祖父は言って、祖母のいる4階に行った。いつ戻って来たのか知らなかった。

後でわかったことだが、うちのビルの屋上にも、焼夷弾が数発落ちた。お手伝いさんは20歳を出たばかりの若い娘さんだったが、気丈な人で、メロメロと火を吹く焼夷弾を火叩き棒で叩いて火を消し、外に放り出したということだった。このうちの1発が、もし4階に飛び込んでいたなら、どうなっていたことか、ゾッとする思いだった。事実、屋上の木造の物置も焦げていた。

とにかく、無事に夜が明けた。「ありがとうございました」「おかげで、助かりました」と口々に言って、避難していた人がぞろぞろ出て行った。

屋上に上がってみた。ずーと先まで、一面焼け野原だった。うちの周囲は全部焼けてしまっていた。近所では、三菱銀行のビルは無事らしかったが、コンクリートのビルでも内部が焼けて、外側だけ残っているのが多かった。あちこちの焼跡で、白い煙がくすぶっていた。カサカサした風、焦げ臭い空気が目にしみた。

うちのビルが助かって、本当によかったと思った。その反面、みんながこんなに焼けたのに、うちだけが助かって、なんだか申し訳ないような、複雑な気分だった。人間がその身で火の入るのを防いだからで、他のビルはみな焼けていた。

4月4日夜、空襲警報が出て、また防空壕に入った。今度はうちの者6人だけだった。3月の時は、今度はやられるかもしれないという不安があったが、もううち1軒だけだから大丈夫という気が強かった。それだけに、近所に爆弾が落ち、物凄い爆発音がした時は本当に恐いと思った。爆風で、ビルの窓ガラスが全部粉々に飛び散っていた。3月の近火で脆くなっていたのだった。

翌朝、現場に行ってみた。小菅ビルの前の清洲橋通りの道路に、道幅一杯もあるような大きな穴があいていた。

全くの焼け野原で、落下地点と私のビルとの間には何もない。爆風がもろにぶつかってきたわけである。小菅ビルのガラスもメチャクチャにやられていた。これを見て、初めて爆弾の恐さを知り、ゾッとした。しかし、この爆撃で直接被害を受けた人がいなかったのは幸いであった。とは言うものの、この1発の爆弾はお腹にドシンと響いた。

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?

同じカテゴリから探す

こちらのページも読まれています

 

中央区トップページ > 区政情報 > 構想・計画・施策 > 平和事業の推進 > 平和祈念バーチャルミュージアム > 資料室 > 体験記 > 「鉄筋のビルで焼けずにすんだ」中田多嘉子(なかたたかこ)