掲載日:2023年1月18日

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令和2年度 日本への空襲と区内の被害

昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍によるハワイ真珠湾攻撃(アメリカ太平洋艦隊への総攻撃)が行われました。これが発端となり、アメリカ・イギリスを始めとする連合国との全面戦争(太平洋戦争)に発展しました。開戦当初の日本軍は、昭和17年(1942年)1月にフィリピン、2月にシンガポールなどを占領しましたが、6月のミッドウェー海戦敗北を境に戦局が変化しました。また、この間に行われたアメリカ陸軍機による日本初空襲(昭和17年4月18日に受けた東京・名古屋・神戸などの都市空襲)は、本土への本格的な空襲を予見するような出来事でもありました。

昭和19年(1944年)になると日本国内への空襲も次第に多くなり、11月にはB29爆撃機による東京空襲が始まりました。その後も昭和20年(1945年)8月の終戦までの間に、軍事関係施設から住宅地に至るまで大規模な爆撃が繰り返されました。

啓発ポスター「重爆撃機の行動半径」 所蔵:国立公文書館 画像
啓発ポスター「重爆撃機の行動半径」 所蔵:国立公文書館

啓発ポスター「都市空襲の脅威」 所蔵:国立公文書館 画像
啓発ポスター「都市空襲の脅威」 所蔵:国立公文書館

防空演習と消火訓練

飛行機が戦争に使用された第一次世界大戦を契機に都市防空が重要視されるようになり、昭和初期の日本でも都市部で大規模な防空演習が実施されました。空襲や毒ガスによる被害を最小限に抑えるため、灯火管制・消防・警備・防空に関する演習(訓練)が町会などの単位でも実施されるようになりました。そして、日本の都市空襲が行われる昭和19年(1944年)前後からは、各種の防空訓練が頻繁に実施されていきました。危機に備えて町内会・隣組によるバケツリレーや「はたき」を用いた人力の消火訓練が行われましたが、木造家屋の多い日本では油脂焼夷弾による爆撃と広範囲な火災への対応はほとんどできませんでした。

啓発ポスター「空襲に対する国民の態度」 所蔵:国立公文書館 画像
啓発ポスター「空襲に対する国民の態度」 所蔵:国立公文書館

大日本防空協会帝都支部編『隣組防空絵解』 所蔵:東京都公文書館 画像
大日本防空協会帝都支部編『隣組防空絵解』 所蔵:東京都公文書館

消火訓練 提供:石川令子 画像
消火訓練 提供:石川令子

両国町隣組の消火訓練 提供:西山隆 画像
両国町隣組の消火訓練 提供:西山隆

京橋一丁目隣組の防空演習 提供:共同通信社 画像
京橋一丁目隣組の防空演習 提供:共同通信社

昭和19年8月 銀座通りで行われた防空待避訓練 提供:共同通信社 画像
昭和19年8月 銀座通りで行われた防空待避訓練 提供:共同通信社

中央区内の空襲被害

区内で初めての空襲は、昭和19年(1944年)11月29日に旧京橋区築地六丁目(浜離宮)へ落とされた爆撃です。この年は、11月から12月にかけて合計4回(旧日本橋区2回・旧京橋区2回)の空襲がありました。昭和20年(1945年)になると、年明けから終戦直前まで毎月複数回の爆撃が区内を襲いました。太平洋戦争末期となるこの年は、区内への爆撃もいっそう激しさを増し、1月から8月までの間に合計11回もの空襲がありました。

中でも、昭和20年3月10日未明に行われたB29爆撃機による東京東部への無差別爆撃は、下町地域を中心に東京都心の約40キロメートルにわたって大きな被害をもたらしました。この「東京大空襲」によって、区内全域(旧日本橋区・旧京橋区)が甚大な人的・物的被害に遭いました。

空襲における東京35区の被害状況(昭和19年12月10日から昭和20年8月14日の被害集計) (注記)『東京都戦災誌』所収「東京都家屋被害状況」「人的物的戦争被害月別一覧表」を基に作成)

区内全体の空襲被害(昭和19年11月29日から昭和20年8月13日)

区内への空襲日と被害地域(昭和19年11月29日から昭和20年8月13日) (注記)『東京都戦災誌』所収「戦災日誌」を基に作成

警報発令看板 所蔵:中央区立郷土天文館 画像
警報発令看板 所蔵:中央区立郷土天文館

防空サイレン 所蔵:中央区立郷土天文館 画像
防空サイレン 所蔵:中央区立郷土天文館

M69油脂焼夷弾(空筒) 所蔵:中央区立郷土天文館 画像
M69油脂焼夷弾(空筒) 所蔵:中央区立郷土天文館

区内を襲った空襲の記録

空襲後の旧日本橋区

旧日本橋区(現在の日本橋地域に該当)は、昭和19年(1944年)11月30日にB29爆撃機による初めての空襲(夜間爆撃)を受けて大火災へと発展しました。また、昭和20年(1945年)2月25日の空襲では、問屋街が広がっていた横山町・馬喰町が初めて大きな被害を受けました。中でも、同年3月10日未明の「東京大空襲」では、死者・負傷者・建物の焼失が極めて大きく、旧日本橋区に甚大な被害をもたらしました。

東京大空襲による惨禍の跡 東京駅八重洲口、丸の内方面の焼け跡を望む 提供:共同通信社 画像
東京大空襲による惨禍の跡 東京駅八重洲口、丸の内方面の焼け跡を望む 提供:共同通信社

東京大空襲直後の旧日本橋区両国一帯 提供:西山隆 画像
東京大空襲直後の旧日本橋区両国一帯 提供:西山隆

瓦礫と化した日本橋地区を走る市電 提供:後藤種吉 画像
瓦礫と化した日本橋地区を走る市電 提供:後藤種吉

空襲後の旧京橋区

旧京橋区(現在の京橋地域に該当)は、主に昭和20年(1945年)1月27日の空襲、同年3月10日未明の「東京大空襲」、同年5月25日の空襲によって大きな被害を受けました。東京大空襲では、B29爆撃機によって京橋地域がくまなく爆撃され、これまでの空襲では比べものにならないほどの甚大な被害を受けました。また、5月25日の空襲でも京橋地域全体が爆撃を受け、銀座地区では銀座三越・松屋・御木本真珠店・鳩居堂などの建物も焼失しました。

焼夷弾で焼き尽くされた東京大空襲の惨状 提供:共同通信社 画像
焼夷弾で焼き尽くされた東京大空襲の惨状 提供:共同通信社

炎上する銀座四丁目鳩居堂付近 提供:石川令子 画像
炎上する銀座四丁目鳩居堂付近 提供:石川令子

延焼する御木本真珠店 提供:石川令子 画像
延焼する御木本真珠店 提供:石川令子

参考リンク

歴史年表

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