掲載日:2023年1月18日

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平成29年度 連合国軍による建物接収とその利用

昭和20年(1945年)8月14日、日本はポツダム宣言の受諾を決定し、翌日正午に戦争終結の詔書が放送されました。そして、9月2日に東京湾に停泊中であったアメリカ海軍の戦艦ミズーリ号上で降伏文書の調印が行われ、9月8日には連合国軍(GHQ進駐軍:アメリカ軍が最大多数)による東京進駐が開始されました。
この時に空襲被害を免れた都心の建物や大小さまざまな土地が接収され、約10年にわたって連合国軍の各種施設・宿舎などに利用されました。中央区内(昭和22年までは日本橋区・京橋区)においても、年月を追うごとに接収施設が増加していきました。

参考リンク

中央区(日本橋区・京橋区)内の主な接収建物
区分 建物名 所在地 接収年月 接収解除年月
日本橋区 東京銀行 本石町一丁目6番 昭和20年10月 昭和25年11月
  三井本館 室町二丁目1番 昭和20年10月 昭和27年1月
  野村銀行 通一丁目1番 昭和20年10月 昭和27年10月
  柳瀬自動車 通三丁目4番 昭和20年10月 昭和24年7月
  小倉ビル 小舟町二丁目1番 昭和20年11月 昭和24年4月
  八洲ホテル 通一丁目6番 昭和21年2月 昭和23年4月
  本町アパート 本町三丁目3番 昭和21年2月 昭和23年4月
  渋沢倉庫 茅場町一丁目3番 昭和21年3月 昭和29年9月
  東京証券取引所 兜町一丁目6番 昭和21年6月 昭和27年1月
  国分ビル 通一丁目2番 昭和21年8月 昭和27年10月
  白木屋百貨店 通一丁目9番 昭和21年8月 昭和27年5月
  山一商店車庫 茅場町一丁目3番 昭和21年10月 不詳
  東京小型自動車 江戸橋三丁目6番 昭和21年11月 昭和32年7月
  千代田銀行車庫 江戸橋一丁目8番 昭和22年2月 昭和28年8月
  三井倉庫 箱崎町三丁目12番 昭和22年5月 昭和27年4月
  加賀ビル 江戸橋一丁目12番 昭和22年10月 昭和26年1月
京橋区 松屋銀座店 銀座三丁目1番 昭和20年9月 昭和27年9月
  マツダビル 銀座西五丁目2番 昭和20年9月 昭和31年5月
  聖路加国際病院旧館 明石町37番 昭和20年9月 昭和28年2月
  聖路加国際病院新館 明石町53番 昭和20年9月 昭和31年5月
  明石国民学校 明石町40番 昭和20年9月 昭和28年7月
  日本海員掖済会館 明石町51番 昭和20年9月 昭和27年7月
  海軍経理学校 小田原町三丁目1番 昭和20年9月 昭和33年9月
  服部時計店本社 銀座四丁目2番 昭和20年10月 昭和27年4月
  都立築地病院 築地五丁目1番 昭和20年10月 不詳
  海軍病院 築地五丁目1番 昭和20年10月 不詳
  明石ガレーヂ 湊町三丁目6番 昭和20年11月 昭和28年11月
  中央食糧営団倉庫 月島東河岸通十ニ丁目 昭和20年11月 昭和31年3月
  銀座商館 銀座西四丁目5番 昭和20年12月 昭和24年7月
  日本製鉄別館 木挽町七丁目5番 昭和20年12月 昭和30年11月
  蓬莱橋配給所 木挽町八丁目3番 昭和20年12月 昭和26年5月
  中央卸売市場築地市場 築地五丁目1番 昭和20年12月 昭和30年3月
  黒澤ビル 銀座六丁目2番 昭和21年1月 昭和27年2月
  近藤商事 西八丁堀四丁目3番 昭和21年1月 昭和30年3月
  三菱倉庫 越前堀三丁目2番 昭和21年3月 昭和27年12月
  味の素ビル 宝町一丁目7番 昭和21年6月 昭和30年3月
  木村屋工場 小田原町一丁目14番 昭和21年7月 昭和23年6月
  乾倉庫 月島西河岸通九丁目7番 昭和21年10月 昭和33年2月
  日本冷蔵 小田原町二丁目25番 昭和23年4月 昭和24年10月

(注)本表の作成に当たっては、以下の資料を参考とした。なお、個人住宅や土地については省略した。
『中央区三十年史 上巻』(中央区役所、1980年)
福島鋳郎『G.H.Q.東京占領地図』(雄松堂出版、1987年)
「CITY MAP CENTRAL TOKYO JUNE 1948」(GHQ作成地図)

ホテル・物品購買所となった接収建物

中央区域(日本橋区・京橋区)の接収建物は、連合国軍に必要な物資の補給・整備・連絡、そして兵員のための施設などに利用されました。宿舎に転用された「野村銀行」(リバービューホテル)・「東京証券取引所」(エクスチェンジホテル)・「味の素ビル」(コンチネンタルホテル)などの他、日用品・飲食物の売店に転用された「松屋銀座店」「服部時計店」(PX〈Post Exchange〉)といった商業・娯楽的な施設が設けられました。このように、戦後においても江戸・明治以来の商業の中心地、物資物流の集散地としての中央区の地域的特色が生かされるかたちとなりました。

リバービューホテル(野村銀行) 撮影:持田晃 提供:昭和館 画像
リバービューホテル(野村銀行) 撮影:持田晃 提供:昭和館

エクスチェンジホテル(東京証券取引所) 提供:東京証券取引所 画像
エクスチェンジホテル(東京証券取引所) 提供:東京証券取引所

TOKYO PX(松屋銀座店) 提供:国立国会図書館 画像
TOKYO PX(松屋銀座店) 提供:国立国会図書館

TOKYO PX(服部時計店) 提供:昭和館 画像
TOKYO PX(服部時計店) 提供:昭和館

民間財産管理局・憲兵隊本部となった接収建物

昭和4年(1929年)にアメリカの最先端の設計・技術を持って竣工した「三井本館」は、接収後に連合国対日理事会やGHQ外交局が入りました。そして、日本橋川を挟んで南に立つ「国分ビル」は、在日連合国および枢軸国や日本の財産を管理・処分・保護するGHQの民間財産管理局へと転用されました。また、中央卸売市場築地市場に程近い勝鬨橋たもとにあった築地の「海軍経理学校」は、東京地区の治安維持や警備などにあたるキャンプバーネス(憲兵隊駐屯施設)となりました。

CPC(民間財産管理局):Civil Property Custodian(国分ビル) 提供:昭和館 画像
CPC(民間財産管理局):Civil Property Custodian(国分ビル) 提供:昭和館

CAMP BURNESS(海軍経理学校) 提供:佐藤洋一 所蔵:米国国立公文書館 画像
CAMP BURNESS(海軍経理学校) 提供:佐藤洋一 所蔵:米国国立公文書館

陸軍病院・洗濯工場となった接収建物

空襲被害を免れた築地・明石町地区では、終戦後も昭和初期に建てられた近代建築や町家建築が焼失せずに残されていました。このうち、「聖路加国際病院旧館」や「同病院新館」の他、「都立築地病院」「海軍病院」などについては、接収後もアメリカの陸軍病院として利用されました。また、「中央卸売市場築地市場」の建物は、GHQのランドリー施設へとリノベーションされ、広大な市場敷地を利用したモータープール(駐車場)なども設けられました。


アメリカ陸軍第42総合病院(聖路加国際病院旧館) 提供:学校法人聖路加国際大学


GHQランドリー前の集合写真(中央卸売市場築地市場) 提供:東京都クリーニング生活衛生同業組合

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