掲載日:2023年3月20日

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令和4年度 中央区の戦後復興-焼跡の灰じん処理と掘割の埋め立て-

B29爆撃機による区内(旧京橋区・旧日本橋区)への空襲は、昭和19年(1944年)11月29日の初空襲(築地六丁目の浜離宮)から昭和20年(1945年)8月13日の最後の空襲(明石町3番・湊町三丁目・佃島・石川島造船所・月島東仲通五丁目・同七丁目)まで、約9カ月半の間に15回ほど行われました。

特に、昭和20年3月9日から10日にかけて行われた東京大空襲では、300機以上の爆撃機によって東京の下町地域を中心に大量の焼夷弾が投下されました。この時の空襲で、約27万戸の家屋が被災し、約100万人もの被災者が発生したと推定されており、区内も壊滅的な被害を受けました。

空襲による被災面積の大きさも、被災で生じた灰じんの量も膨大なものとなり、昭和20年8月の終戦を迎えた直後の区内は、荒涼とした焼跡が広がり、がれき灰じんに埋もれたまちが広がっていました。復興においては、第一に焼跡の外形を整え、道路までうず高く積まれた灰じん処理を行うことが急務でした。

東京都による復興のための土地区画整理は、昭和21年(1946年)から始められ、残土処理事業もこの一環として行われました。その対策として、流れが止まって舟行に適さず、浄化が困難な掘割(河川)を残土で埋め立てて土地を造成し、売却することで事業費を捻出する方法が取られました。

区内の掘割は、戦後の復興に伴って昭和24年(1949年)に東堀留川・新川、昭和25年(1950年)に龍閑川(りゅうかんがわ)・浜町川の一部・外堀の一部、昭和27年(1952年)に三十間堀川(さんじっけんぼりがわ)・外堀の一部が埋め立てられました。

参考リンク

焼夷弾で焼き尽くされた東京大空襲(昭和20年3月10日)の惨状 所蔵:共同通信社

焼夷弾で焼き尽くされた東京大空襲(昭和20年3月10日)の惨状 所蔵:共同通信社

大空襲で焼失した京橋周辺 所蔵:中央区立京橋図書館

大空襲で焼失した京橋周辺 所蔵:中央区立京橋図書館

戦後に実施された区内の掘割(河川)の埋め立て

戦時中に荒廃した交通機関(鉄道や水運など)の再建と焼跡の灰じん(残土)処理に当たって、区内を縦横に流れていた掘割(河川)の埋め立てが進められました。掘割の埋め立て工事と相まって交通機関・交通網(河川交通から自動車交通へ)も大きく変化し、戦後の中央区の変化を象徴するものとなりました。区内では、昭和20年代に行われた戦後復興時の埋め立て、昭和30年代に行われた東京オリンピック(第18回オリンピック競技大会)に伴う埋め立て、その後の昭和40年代から50年代にかけての埋め立てが実施され、漸次水路としての役割を終えた掘割(河川)が埋め立てられていきました。

東堀留川の埋め立て(昭和24年)

埋め立て前の東堀留川は、日本橋から分流して北西に入り込み、堀留一丁目先で堀川が「堀留」となっていました。この堀には、南から「小網橋」「親父橋(おやじばし)」「万橋(よろずばし)」などが架橋されていました。

注記:写真はすべて中央区立京橋図書館所蔵

東堀留川の深奥部(工事中)

東堀留川の深奥部(工事中)

東堀留川の深奥部(埋め立て後)

東堀留川の深奥部(埋め立て後)

 

東堀留川の深奥部から南の万橋を望む(工事中)

東堀留川の深奥部から南の万橋を望む(工事中)

小網橋付近の作業状況(工事中)

小網橋付近の作業状況(工事中)

新川の埋め立て(昭和24年)

埋め立て前の新川は、亀島川から分流して東へ流れ、新川地区を横断するように流れて隅田川に注いでいました。この堀には、西から「一ノ橋」「新川橋」「東新川橋」「三ノ橋」などが架橋されていました。

注記:写真はすべて中央区立京橋図書館所蔵

一ノ橋から西の亀島川合流地点を望む  (工事中)

一ノ橋から西の亀島川合流地点を望む

(工事中)

一ノ橋から東の新川橋を望む(工事中)

一ノ橋から東の新川橋を望む(工事中)

龍閑川の埋め立て(昭和25年)

埋め立て前の龍閑川は、外堀川から分流して旧神田区と旧日本橋区との境界を東へ流れ、浜町川に合流していました。この堀には、西から「龍閑橋」「白旗橋(しらはたばし)」「西仲之橋」「今川橋」「東仲之橋」「地蔵橋」「火除橋(ひよけばし)」「九道橋(くどうばし)」「甚兵衛橋(じんべえばし)」「玉出橋」などが架橋されていました。

注記:写真はすべて中央区立京橋図書館所蔵

今川橋上空から西の西仲之橋・白旗橋  を望む(工事中)

今川橋上空から西の西仲之橋・白旗橋

を望む(工事中)

今川橋上空から西の西仲之橋・白旗橋  を望む(埋め立て後)

今川橋上空から西の西仲之橋・白旗橋

を望む(埋め立て後)

 

今川橋上空から東の東仲之橋・地蔵橋・  火除橋を望む(工事中)

今川橋上空から東の東仲之橋・地蔵橋・

火除橋を望む(工事中)

今川橋上空から東の東仲之橋・地蔵橋・  火除橋を望む(埋め立て後)

今川橋上空から東の東仲之橋・地蔵橋・

火除橋を望む(埋め立て後)

浜町川の埋め立て(昭和25年 戦後復興では「竹森橋の先から小川橋まで」)

埋め立て前の浜町川は、小伝馬町三丁目先で龍閑川から分流して南東へ流れ、箱崎川に合流していました。この堀には、北から「竹森橋」「鞍掛橋(くらかけばし)」「緑橋」「汐見橋(しおみばし)」「千鳥橋(ちどりばし)」「問屋橋」「栄橋」「高砂橋」「元高砂橋」「小川橋」「明治橋」「蛎浜橋」「中ノ橋」「浜洲橋」「川口橋」などが架橋されていました。

注記:写真はすべて中央区立京橋図書館所蔵

鞍掛橋から南東の緑橋を望む(埋め立て前)

鞍掛橋から南東の緑橋を望む(埋め立て前)

鞍掛橋から南東の緑橋を望む(工事中)

鞍掛橋から南東の緑橋を望む(工事中)

 

小川橋から北西の高砂橋・栄橋を望む  (埋め立て前)

小川橋から北西の高砂橋・栄橋を望む

(埋め立て前)

小川橋から北西の高砂橋・栄橋を望む  (埋め立て後)

小川橋から北西の高砂橋・栄橋を望む

(埋め立て後)

三十間堀川の埋め立て(昭和27年)

埋め立て前の三十間堀川は、京橋川から分流して南へ流れ、銀座一丁目から同八丁目を縦断するように流れて汐留川に合流していました。この堀には、北から「水谷橋」「紀伊国橋(きのくにばし)」「豊玉橋」「朝日橋」「三原橋」「木挽橋(こびきばし)」「賑橋(にぎわいばし)」「出雲橋(いずもばし)」「八通八橋(やつやばし)」などが架橋されていました。

注記:写真はすべて中央区立京橋図書館所蔵

賑橋から北の木挽橋を望む(埋め立て前)

賑橋から北の木挽橋を望む(埋め立て前)

賑橋から北の木挽橋を望む(埋め立て後)

賑橋から北の木挽橋を望む(埋め立て後)

 

三原橋上空から南の木挽橋・賑橋・出雲橋  を望む(埋め立て前)

三原橋上空から南の木挽橋・賑橋・出雲橋

を望む(埋め立て前)

三原橋上空から南の木挽橋・賑橋・出雲橋  を望む(埋め立て後)

三原橋上空から南の木挽橋・賑橋・出雲橋

を望む(埋め立て後)

お問い合わせ先

区民部地域振興課地域事業係

〒104-8404 築地一丁目1番1号 本庁舎7階

電話:03-3546-5339

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