掲載日:2024年3月15日

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令和5年度 中央区の戦後復興-焼跡の灰じん処理と掘割の埋め立てvol.2-

中央区内(旧京橋区・旧日本橋区)は、昭和19年(1944年)11月から昭和20年(1945年)8月までの間に延べ15回の空襲に遭いました。特に、太平洋戦争末期の昭和20年3月に行われた東京大空襲では、区内はもとより東京の下町地域が大量の焼夷弾によって、壊滅的な被害を受けました。

昭和20年8月に終戦を迎えた東京では、荒廃した都市交通機関(鉄道・都電・舟運など)の再編成が行われ、その結果、自動車による新しい交通手段が発達していきました。復興の妨げとなっていた大量のがれき灰じんなどの残土は、離れた埋立地まで運ぶまでもなく、至近の掘割(河川)を利用して埋める方法が取られました。

昭和21年(1946年)には、東京都による復興事業計画(土地区画整理・駅前広場や公園整備など)の一環で残土処理事業が進められました。区内の掘割は、昭和24年(1949年)に実施された東堀留川・新川の埋め立てを手始めに、龍閑川(りゅうかんがわ)・浜町川と次々に実施されていきました。

令和4年度企画展では、戦後復興の初期に行われた掘割の埋め立てを取り上げましたが、引き続き昭和20年代後半から昭和30年代後半に実施された区内の掘割の様子をみていきます。特に、昭和30年代には、戦後復興の象徴ともいえる昭和39年(1964年)の東京オリンピックに向けて、区内の掘割を利用した高速道路の建設なども急ピッチで進められました。

戦後に実施された区内の掘割(河川)の埋め立て

終戦後に実施された掘割(河川)の埋め立ては、長らく用いられてきた河川交通からの転機にもなりました。区内では、交通利用が減少傾向にあった東堀留川・新川・龍閑川・浜町川・三十間堀川などの掘割を順次埋め立て、その後も昭和30年代から昭和40年代を中心に、区内各地区を流れていた掘割が埋め立てられていきました。

戦後の区内の河川埋立状況図(昭和50年頃)からは、戦後の一時期まで区内を縦横に走っていた掘割(河川)の位置と埋立状況が把握できます。

戦後の区内の河川埋立状況図(昭和50年頃の様子)

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戦後の区内の河川埋立状況図(昭和50年頃の様子)

①東堀留川 ②新川 ③龍閑川・浜町川(小川橋まで)④三十間堀川 ⑤外堀川 ⑥京橋川 ⑦汐留川⑧楓川・築地川 ⑨桜川 ⑩築地川北支川 ⑪箱崎川 ⑫箱崎川支川 ⑬隅田川左岸 ⑭築地川東支川 ⑮佃川 ⑯浜町川(小川橋から箱崎川合流点まで)

三十間堀川の埋め立て(昭和27年)

 埋め立て前の三十間堀川は、京橋川から分流して南へ流れ、銀座一丁目から同八丁目を縦断するように流れて汐留川に合流していました。この堀には、北から「水谷橋」「紀伊国橋(きのくにばし)」「豊玉橋」「朝日橋」「三原橋」「木挽橋(こびきばし)」「賑橋(にぎわいばし)」「出雲橋(いずもばし)」「八通八橋(やつやばし)」などが架橋されていました。

注記:写真はすべて中央区立京橋図書館所蔵

「三原橋」を北の上空から望む(埋め立て前)

「三原橋」を北の上空から望む(埋め立て前) 

「三原橋」を北の上空から望む(埋め立て後)

「三原橋」を北の上空から望む(埋め立て後)

 

賑橋から南の「出雲橋」を望む(埋め立て前)

賑橋から南の「出雲橋」を望む(埋め立て前)  

賑橋から南の「出雲橋」を望む(埋め立て後)

賑橋から南の「出雲橋」を望む(埋め立て後)

   

八通八橋から北の「出雲橋」を望む(埋め立て前)   

八通八橋から北の「出雲橋」を望む               

(埋め立て前)

八通八橋から北の「出雲橋」を望む (埋め立て工事中)

八通八橋から北の「出雲橋」を望む

(埋め立て工事中)

外堀川の埋め立て(昭和25年~昭和42年)

区域を流れる埋め立て前の江戸城の外堀(外濠)川は、八重洲一丁目から銀座八丁目(千代田区との境を流れる)にかけて流れていました。昭和25年(1950年)からの埋め立てでは、日本橋川との合流点から京橋川の合流点までが順次進められ(一部は昭和42年に埋め立て)、その後は昭和39年(1964年)までに京橋川の合流点から南の掘割が進められました。

なお、埋め立てられた掘割には、北から「呉服橋」「八重洲橋」「鍛冶橋」「有楽橋」「新有楽橋」「丸の内橋」「数寄屋橋」「山下橋」「新幸橋(しんさいわいばし)」などが架橋されていました。

注記:写真はすべて中央区立京橋図書館所蔵(令和6年1月撮影を除く)

丸の内橋から南の数寄屋橋方面を望む(昭和31年頃)

丸の内橋から南の数寄屋橋方面を望む(昭和31年頃)

 

建設中の高速道路に残る「丸の内橋」と南の「数寄屋橋」(昭和32年頃)

建設中の高速道路に残る「丸の内橋」と南の「数寄屋橋」(昭和32年頃)

 

  旧外堀川(旧丸の内橋の上空から南)に走る高速道路(令和6年1月撮影)

旧外堀川(旧丸の内橋の上空から南)に走る高速道路(令和6年1月撮影)

 

「数寄屋橋」の上空から見た建設中の高速道路(昭和32年頃)

「数寄屋橋」の上空から見た建設中の高速道路(昭和32年頃) 

 

  外堀川(旧数寄屋橋の上空から北)に走る高速道路(令和6年1月撮影)

外堀川(旧数寄屋橋の上空から北)に走る高速道路(令和6年1月撮影)

京橋川の埋め立て(昭和34年)

 埋め立て前の京橋川は、外堀川から分岐して八重洲二丁目と銀座一丁目との間を流れており、東は桜川(八丁堀川)、北は楓川、南は三十間堀川と合流していました。この堀には、西から「城辺橋(しろべばし)」「紺屋橋(こんやばし)」「京橋」「炭谷橋(すみやばし)」「新京橋」「白魚橋」などが架橋されていました。

注記:写真はすべて中央区立京橋図書館所蔵

紺屋橋から西の「城辺橋」を望む(昭和31年頃)

紺屋橋から西の「城辺橋」を望む(昭和31年頃)

 

旧京橋川に走る東京高速道路(新京橋出口付近)(昭和40年頃)

旧京橋川に走る東京高速道路(新京橋出口付近)(昭和40年頃)

築地川の埋め立て(昭和40年~昭和53年)(築地川東支川の一部を除く)

埋め立て前の築地川は、築地一丁目から四丁目までを囲むように流れていました。築地川には、現在の中央区役所前から南西に向かって旧浜離宮庭園へと至る流れと、この途中の築地四丁目の采女橋(うねめばし)付近で南東に折れて隅田川に至る流れ(築地川東支川)がありました。一方で、区役所前から東南に向かい、明石町手前の入船橋付近で南に折れていく流れ(築地川南支川)もありました。

築地川は、首都高速道路の建設に伴って、昭和35年(1960年)の埋立認可後に工事が進められ、昭和40年(1965年)までに中央区役所付近から南西に流れる掘割の埋め立て工事が完了しました。これ以外の部分は、昭和40年代から段階的に埋め立てが進められ、昭和53年(1978年)までの間に一部(築地川東支川の一部)を残してほとんどが埋め立てられました。

注記:写真はすべて中央区立京橋図書館所蔵

北から「三吉橋」と中央区役所を望む(昭和35年頃)

北から「三吉橋」と中央区役所を望む(昭和35年頃)

南から「門跡橋」「備前橋」「暁橋」を望む(昭和37年頃)

南から「門跡橋」「備前橋」「暁橋」を望む(昭和37年頃)

 

旧築地川に走る首都高速道路(南から「万年橋」「祝橋」「亀井橋」「三吉橋」を望む)(昭和38年頃)

旧築地川に走る首都高速道路(南から「万年橋」「祝橋」「亀井橋」「三吉橋」を望む)(昭和38年頃)

お問い合わせ先

区民部地域振興課地域事業係

〒104-8404 築地一丁目1番1号 本庁舎7階

電話:03-3546-5339

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