旧浜離宮庭園

掲載日:2023年7月20日

ページID:13468

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旧浜離宮庭園

種別

国指定特別名勝特別史跡

所在地

浜離宮庭園

広報紙コラム「区内の文化財」より(令和5年1月21日号)

1月も中旬を過ぎると、秋の鮮やかな紅葉とは異なり、静寂に包まれた冬景色の様相を呈してきました。一方で、手入れの行き届いた日本庭園を訪れてみると、変化に富んだ四季折々の風情と美しい景色が鑑賞できます。秩序立った調整の美が見て取れる西洋庭園とは異なり、日本庭園では自然の造形美に意味を見出す日本人の美意識や自然に対する価値観に触れることができます。
区内には、日本庭園の中でも美しい景観・特徴的な造形・歴史性などの点で文化財的価値が高い「旧浜離宮庭園」(文化財指定名称)があります。特に、「特別名勝」と「特別史跡」の二重指定を受けている日本庭園については、全国的に見ても9カ所程度(都内には「旧浜離宮庭園」「小石川後楽園」の2カ所、京都府に3カ所、岩手県・福井県・奈良県・広島県に各1カ所)しかないため、極めて希少な文化財庭園となっています。
築地五丁目(旧築地市場跡地)のすぐ南西に位置する旧浜離宮庭園は、四方を築地川・汐留川・東京湾で囲まれた約25万平方メートルの面積(文化財指定の面積は海面や河川周囲の水面地域を含めて約32万4,000平方メートル)を誇る広大な庭園です。江戸時代の作庭当時から臨海部に立地する特性を生かした当庭園は、東南から南庭の中心にある池(「潮入〈しおいり〉の池」)へ直接海水を導水する(現在は築地川水門によって海水を導く)ことで、潮の満ち引きによって創り出される多様な景観の変化が望めるようになっています。
なお、旧浜離宮庭園は、江戸時代の大名屋敷で数多く営まれた池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)(広大な池泉の周囲を回遊して鑑賞する形式の庭園〈小島・橋・飛び石・築山・茶亭などを設ける〉)の特色が良く残されており、かつ、諸大名が臨海部の屋敷内で造成した典型的な潮入り庭園の様式を伝える希少な事例となっています。このため、当庭園は優れた風致景観における芸術・鑑賞上の価値が高い特別な名勝として位置付けられています。
また、庭園内に現存する江戸時代の遺構については、外周にみられる石積みの護岸や北角に位置する大手門(浜大手門〈はまおおてもん〉)の枡形〈ますがた〉と櫓台〈やぐらだい〉などが確認できます。このうち城門のような大手門の枡形には、上位の旗本(5千石以上1万石以下)が3年勤番で警備に当たっていました。徳川将軍家の別邸として長らく機能してきた当庭園は、幕末期における幕府軍艦の乗降場としての利用、江戸湾岸防備を目的とした園地への大砲設置、南角へのカノン砲(大砲の一種)設置など、江戸城の出城的性格を帯びた庭園でもありました。
歴史的な経緯をたどれば、もともと将軍家の鷹狩り場であった当該地は、甲府徳川家の城主・綱重〈つなしげ〉が拝領後に埋め立てて邸宅を造営(「甲府浜屋敷」などと称された下屋敷)し、子の綱豊〈つなとよ〉が5代将軍綱吉の継嗣〈けいし〉(6代将軍・徳川家宣〈いえのぶ〉)となったため将軍家の別邸(「浜御殿」と称される)になりました。その後も大改修や施設整備などが進められ、11代将軍家斉〈いえなり〉(鷹狩りを中心に歴代最多の248回の利用)の時代に現在のような景観がおおむね整えられています。そして、明治3年(1870)に宮内省所管の「浜離宮」として皇室宴遊の地(離宮内には明治22年〈1889〉まで諸外国貴賓に対する迎賓施設〈延遼館(えんりょうかん)〉が立つ)となり、昭和20年(1945)には東京都へ下賜された後に急ピッチで整備が進められ、翌年に都立公園「浜離宮恩賜〈おんし〉庭園」として開園に至っています。こうした変遷を経てきた旧浜離宮庭園は、日本の文化を象徴する歴史的な庭園であり、かつ、学術上の価値が高い特別な史跡としても位置付けられています。
中央区教育委員会 学芸員
増山一成

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