永代橋(えいたいばし)

掲載日:2023年7月20日

ページID:4246

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永代橋の画像
永代橋

種別

国指定重要文化財 建造物

所在地

新川一丁目から江東区佐賀一丁目・永代一丁目

広報紙コラム「区内の文化財」より(令和3年9月21日号)

隅田川下流に架かる清洲橋(きよすばし)・永代橋・勝鬨橋(かちどきばし)は、日本の橋梁(きょうりょう)技術史において高い価値を有する橋であるため、平成19年(2007)6月にそれぞれ重要文化財の指定を受けました。いずれも中央区と江東区を結ぶ鋼製橋梁であり、清洲橋と永代橋は関東大震災後の復興事業を象徴する優れた構造・意匠を持ち、勝鬨橋は当時の最先端技術を駆使した日本で最大規模の跳開橋(ちょうかいきょう)(昭和45年に開閉停止)です。
この重要文化財3橋のうち、清洲橋(昭和3年)と勝鬨橋(昭和15年)は昭和期に初めて架けられた橋ですが、江戸時代に創架された永代橋は改架を繰り返して現在の橋となりました。なお、永代橋の架橋については、幕府編纂(へんさん)の史書『御実紀(ごじっき)』(通称『徳川実紀』)をひもとくと、元禄11年(1698)に関東郡代(かんとうぐんだい)の伊奈半左衛門忠順(いなはんざえもんただのぶ)を普請奉行に命じて、深川の大渡し(おおわたし)(架橋以前の渡舟)へ新しく木橋を架けたことが記されています(元禄9年の架橋説もあり)。また、橋名については、対岸の佐賀町周辺を永代島(えいたいじま)と称していたことにちなんで名付けたとも言われています。
旧永代橋は、約100メートル上流位置に架橋されていましたが、明治30年(1897)の鉄橋(三径間(さんけいかん)の曲弦(きょくげん)プラットトラス橋)への改架工事に伴って現在地に移設されました。鉄製の巨大橋として話題を集めた旧永代橋でしたが、関東大震災で大きく被災したため、復興局の工事で大正15年(1926)12月に改架されました。新架された永代橋は、隅田川で最初に竣工した震災復興橋梁であり、眺望の良い最下流に架かる第一橋梁として舟運交通のランドマークにもなりました。詩人・北原白秋(きたはらはくしゅう)(1885から1942)は、『大川風景』の中で「兜形の大きな弧線(こせん)、堂々(どうどう)たるその雄姿、新装の永代橋が眼前に展ける(ひらける)。その重圧と均斉(きんせい)と、放射線と、緩い両裾(りょうすそ)の美しい線と線と、まさしく墨水(ぼくすい)第一の鋼鉄橋である。」と架橋当時の様子を述べています。
設計原案は、太田圓三(おおたえんぞう)(内務省復興局土木部長)と田中豊(同局橋梁課長)が作成に携わり、竹中喜義(たけなかきよし)(同局技師)の詳細設計に基づき、釘宮磐(くぎみやいわお)(同局技師)を中心に建設工事(橋梁各部の製作は株式会社川崎造船所など複数社)が進められました。橋長184.7メートル・幅員25.6メートル(有効幅員22.0メートル)の規模を有する永代橋は、三径間(さんけいかん)の下路式(かろしき)タイドアーチ(アーチ構造の下側に路面を設ける)と呼ばれる構造形式を持ち、当時の世界最高水準の張力を持つ鋼材(デュコール鋼(こう))を初めて用いた鋼橋(こうきょう)でした。なお、軟弱地盤に耐える下部構造(橋脚・橋台)とするため、ニューマチックケーソン(空気潜函(せんかん)工法)で施工し、橋脚基礎は鉄筋コンクリート造の潜函構造となっています。
重量感あふれる大規模なアーチを中心とする永代橋の荘重(そうちょう)な造形は、復興局が探求した力学的合理性に基づく近代的な橋梁美が表現されており、設計計算書にも「雄大なる環境に調和することは、区々(くく)たる局部的装飾の能く(よく)する処(ところ)にあらず、橋梁其の(その)ものが全体として表現する気分によってのみ果さる(はたさる)。」と記されています。
また、成瀬勝武(なるせかつたけ)(勝鬨橋の設計者)は、その造形を「岸近くでは水面を匐つて(はらばつて)ゆくが、河の中央では高く空中に躍り(おどり)あがり、向ふ岸に近づいて再び水面に沿つて平に進んでゆく型態(けいたい)を持つてゐて、そこに潜んで(ひそんで)ゐる美しさは寔に(まことに)有機的である」と表現しています。
中央区教育委員会 学芸員
増山一成

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