常盤橋門跡(ときわばしもんあと)

掲載日:2023年7月20日

ページID:9094

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常盤橋門跡の画像
常盤橋門跡

種別

国指定史跡

所在地

日本橋本石町二・三丁目から千代田区大手町二丁目

広報紙コラム「区内の文化財」より(令和4年12月21日号)

2024年度の上半期をめどに製造される新一万円札の紙幣には、表面に渋沢栄一の肖像と裏面に東京駅(丸の内駅舎)が印刷される予定です。「近代日本経済の父」と称される渋沢は、その生涯で約500もの企業や団体の創立・運営に携わったといわれており、区内にも渋沢が関与した企業や組織(第一国立銀行・東京株式取引所・東京商法会議所・聖路加〈国際〉病院など)が数多くあります。
なお、日本橋本石町の日本銀行本店本館に程近い千代田区立常盤橋公園には、彫刻家・朝倉文夫(あさくらふみお)が制作した渋沢栄一の銅像(石造台座に「青淵澁澤榮一(せいえんしぶさわえいいち)」の陽刻)が建立されています。当像は、関東大震災(大正12年〈1923〉)後の復旧と整備(当該地一帯を含む)に尽力した渋沢の功績を称えたもので、昭和8年(1933)開園の常盤橋公園とともに建立されました(戦時中の金属供出〈きょうしゅつ〉で撤去された後、昭和30年〈1955〉に再建)。
今回の文化財は、渋沢栄一像が立つ常盤橋公園内に残る江戸時代の城門跡・常盤橋門跡(日本橋川に架〈か〉かる「常磐橋〈ときわばし〉」を含む)です。ちなみに、千代田区との区境を流れる日本橋川には3つの「ときわばし」が架かり、上流から「新常盤橋」(JR線と首都高速都心環状線が交差する付近の橋)、「常磐橋」(江戸時代初期に創架〈そうか〉され、明治10年〈1877〉に石造橋へと改架〈かいか〉)、そして「常盤橋」(大正15年〈1926〉に架橋〈かきょう〉)があります。このうち「盤」の文字に「磐」を当てた常磐橋は、平安時代後期の勅撰〈ちょくせん〉和歌集『金葉和歌集〈きんようわかしゅう〉』の「色かへぬ松によそへてあづま路〈じ〉の常盤〈常磐〉の橋にかかる藤波〈ふじなみ〉」と詠〈よ〉んだ古歌の意味を徳川の旧姓松平の松の常緑・永久不変の岩(常磐〈とこいわ〉)などにかけて名付けたともいわれ、石造橋に改架した明治期以降の親柱には「磐」の文字を用いた橋名が陰刻されています。
この橋が架かる「常盤橋門」の跡は、江戸城と街道を結ぶ江戸五口(他に田安門〈上州口〉・神田橋門〈芝崎口〉・半蔵門〈甲州口〉・外桜田門〈小田原口〉)の一つに数えられる城門の跡です。特に、常盤橋門は江戸城内郭〈ないかく〉の正門(大手門)に通じる「外廓の正門」に当たる重要な城門として浅草口・追手口などとも称され、江戸城から本町通り(現在の大伝馬本町通り)・浅草橋門を経て奥州道へと通じる交通の要衝〈ようしょう〉でした。
現在の江戸城外堀は一部が埋め立てられていますが、かつては江戸城を中心に防御の堀が幾重にも渦巻き状に張り巡らされており、要所には枡形(ますがた)(石垣や堅牢な建物を鉤〈かぎ〉の手状に配置)を備えた見附〈みつけ〉(堀に架かる橋と警護する番兵の見張り所を要する城門)が設けられていました。なお、江戸城には36カ所の見附(幕末期の主要な門は約60カ所)があり、その一つである常盤橋門には3万石以上の外様大名が番所で警備に当たっていました。
城門は明治6年(1873)の撤廃後に取り壊されましたが、現在でも枡形石垣が良好な状態で保存されています。一方、常盤橋門の見附橋として架けられていた木造橋も撤去されましたが、明治10年(1877)に外郭(外堀)門であった小石川門の石材(枡形石垣)を用いて、新たに石造二連アーチ橋「常磐橋」が架橋されました。橋上は歩道と車道が分離(安山岩〈あんざんがん〉・花崗岩〈かこうがん〉の敷石)され、洋風の笠が付いた八角形の灯籠風(とうろうふう)親柱(大理石)や意匠性の高い手摺柵(てすりさく)(戦時中に供出されて戦後に復旧)が設けられるなど、文明開化の様相を今に伝える希少な橋として現存しています。
中央区教育委員会 学芸員
増山一成

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