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江戸時代
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天正18年(1590年)
徳川家康が江戸に入城。城下町の建設に着手。
江戸幕府、天下普請で江戸のインフラを整備
天正18年(1590年)、徳川家康の江戸入城から中央区の歴史は始まります。当時の江戸は、葦の生い茂る荒地で、現在の中央区に当たる地域も、その大部分が海か浜辺でした。家康はまず城下町の整備を進め、その後天下普請と呼ばれる江戸城の建設や埋め立てを開始。これをきっかけに江戸のまちもインフラ整備が進み、神田山(駿河台)を切り開いて豊島の洲崎を埋め立て、浜町の辺りから南新橋に至る隅田川に沿った一帯が出来上がりました。日本橋や京橋もこのころ架けられ、慶長9年(1604年)には日本橋を基点とする五街道制が敷かれ、日本橋・京橋一帯は交通、通信、経済、文化、商業の中心として発展していきます。 天下普請は徳川三代40年にわたって続けられ、現在の日本橋・京橋エリアの大部分が完成します。正保元年(1644年)には、隅田川河口の三角州が埋め立てられ、佃島もできました。
中央区立京橋図書館所蔵
「[隷書]東海道-五十三次 日本橋 一」 -
慶長8年(1603年)
徳川家康が江戸幕府を開く。日本橋、京橋架橋。
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慶長9年(1604年)
日本橋を起点とした全国の道程を定める。
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慶長17年(1612年)
駿府からの移転により銀座が誕生。
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元和2年(1616年)
大和屋助五郎が本小田原町(現在の室町一丁目)に魚市場を開く。
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元保元年(1644年)
佃島築島。
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明暦3年(1657年)
江戸大火(振袖火事)。本郷で出火し日本橋・佃島にも延焼。
振袖火事でまちの整備が進む
当時、世界一とも言われた人口の密集地、江戸は火事の多いまちでした。明暦3年(1657年)、本妙寺(文京区)から起こった明暦の大火(俗に振袖火事)は江戸市中の60%を焼き尽くし、死者は10万7千人余り、現在の中央区一帯はほとんど焼け野原となってしまいました。幕府は直ちに大規模な区画整理と復興事業に着手し、寛文年間(1661~1673年)までには新しい区画による江戸のまちを完成させました。火除け地としての広小路が設けられたのも、多くの大名屋敷が城郭外に移転したのもこの時代です。中央区では八丁堀・霊岸島が武家地、日本橋・京橋一帯は町屋となって広がりました。これにより商人の活躍の場が確保され、中央区が商業地として抜きん出て発展することになります。商業の発展とともに水上輸送もさらに活況を呈し、日本橋川や京橋川、八丁堀などの運河には河岸が設けられ、その周辺に問屋街が広がっていきました。
中央区立京橋図書館所蔵
「江戸土産-築地西本願寺 上」
明治・大正
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明治元年(1868年)
近代日本の夜明け
明治に入り江戸は東京と改まり、日本の首都となります。明治5年(1872年)の鉄道開通に伴い、新橋~浅草間に乗合馬車が走り、同7年(1874年)末にはガス灯が出現。明治15年(1882年)には鉄道馬車が、同36年(1903年)には電車も走り始めます。また、明治20年(1887年)ごろには、銀座に大商店が開店し、日本橋と並ぶショッピング街となります。この時代、既に銀座の柳並木もおなじみの風景になっていました。イギリス人ウォートルスの指導で銀座周辺に造られたれんが街は日本人にはなじまず、空き家が増えてしまいます。しかし、メディア草創期にあった多くの新聞社が社屋として使い始め、銀座新聞街と言われるほどマスコミが集中。銀座はまさに時代の先端のまちへと生まれ変わります。
中央区立京橋図書館所蔵
「東京開化卅六景 京ばしヨリ銀座の図」 -
明治7年(1874年)
京橋・新橋間に馬車が開通。
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明治10年(1877年)
銀座れんが街が誕生。
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明治11年(1878年)
日本橋区、京橋区が誕生。兜町に株式取引所が設立される。
日本橋区・京橋区の誕生
日本橋界わいは、明治6年(1873年)に兜町の第一国立銀行が誕生したのを皮切りに、同11年(1878年)、後の東京証券取引所である東京株式取引所が設立、さらに同15年(1882年)には日本銀行が開業するなど、日本経済の中枢となっていきます。また、築地周辺は外国人居留地となり、教会やミッションスクールが建ち並ぶエキゾチックなまちになりました。明治11年(1878年)、群区町村編制法の施行により、東京府内に15の区が誕生。このとき置かれたのが日本橋区と京橋区で、戦後両区が中央区に統合されるまでの約70年間続きます。明治から昭和初期には、月島エリアが埋め立てにより造成されました。
中央区立京橋図書館所蔵
「第一国立銀行」 -
明治15年(1882年)
箱崎町に日本銀行が設立される。
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明治22年(1889年)
木挽町(現在の銀座)に歌舞伎座が誕生。
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大正12年(1923年)
関東大震災からの復興
大正12年(1923年)9月1日に起こった関東大震災は首都全域に激甚な被害をもたらし、日本橋地区は全域、京橋地区も80%が焼失するという大惨事となりました。復興事業により、昭和通りなど新たな道路も建設され、日本橋にあった魚市場は築地に移転し、多くのデパートが銀座に進出しました。「銀ブラ」という言葉が生まれ、ダンスホールや喫茶店が人気を呼んだのもこのころです。
中央区立郷土資料館所蔵
「[関東大震災]帝都大震災の惨状 江戸橋局より兜町望む」
昭和
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昭和7年(1932年)
地下鉄銀座線が延長され、浅草・新橋間の運行を開始。
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昭和20年(1945年)
東京大空襲からの復興
昭和20年(1945年)の東京大空襲によってまちは焼け野原となりましたが、人々の復興への思いは強く、まちは徐々に元の姿を取り戻していきます。昭和22年(1947年)に東京は23区制となり、日本橋区と京橋区を合わせ中央区が誕生します。新生中央区が日本の経済、文化の中心として本格的に復興したのは講和条約が結ばれた昭和26年(1951年)ごろです。
中央区立京橋図書館所蔵
「戰禍のあと-浜町河岸」 -
昭和22年(1947年)
日本橋区と京橋区が統合され、中央区が誕生。
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昭和28年(1953年)
第1回中央区商業まつり開催。
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昭和30年(1955年)
晴海埠頭開港。晴海で国際見本市開催。
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昭和38年(1963年)
月島に豊海町が誕生。
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昭和45年(1970年)
発展を続ける中央区
昭和30年代にはビル建設ラッシュが訪れ、首都高速道路や地下鉄などの建設も次々と行われました。さらに昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催や高度経済成長を機に中央区も大いに発展を遂げ、特に銀座はデパートやブランドショップが立ち並ぶファッションのまちとして注目を集めます。昭和43年(1968年)には第1回「大銀座祭り」、昭和45年(1970年)からは歩行者天国が実施されました。
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昭和63年(1988年)
東京湾大華火祭開催。
平成
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平成3年(1991年)
全国初の多世代交流型複合施設「マイホームはるみ」開設。
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平成10年(1998年)
45年ぶりに区の人口が前年比で増加。中央区基本構想策定。
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平成11年(1999年)
中央区基本計画策定。
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平成13年(2001年)
中央清掃工場が本稼働開始。
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平成18年(2006年)
区の人口が昭和50年(1975年)以来31年ぶりに10万人を回復。
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平成20年(2008年)
第1回中央区まるごとミュージアム開催。
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平成21年(2009年)
中央区コミュニティバス「江戸バス」運行開始。
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平成23年(2011年)
東日本大震災。
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平成29年(2017年)
中央区基本構想策定。
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平成30年(2018年)
中央区基本計画策定。「築地魚河岸」グランドオープン。
令和
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令和3年(2021年)
東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会開催。
晴海五丁目に選手村が開村。
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令和5年(2023年)
中央区基本計画策定。
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現在