掲載日:2023年1月18日
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配給統制下の築地市場
江戸時代初期、徳川家康が江戸の台所を賄うため、摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区)から呼び寄せた漁師たちに江戸湾内で漁業をさせるとともに、日本橋の袂で魚の市販を許したのが日本橋魚河岸の始まりといわれています。明治に入り、都市の人口の増加とともに、取り扱い量や業者の数が増え、問屋間の過当競争による取引の乱れや不衛生な状況にもあったことから、公設の市場を望む声が高まりました。大正12年(1923)、衛生的な施設で、かつ、セリなどによる公正な取引と価格の安定を図るため、「中央卸売市場法」が制定されました。同年の関東大震災により壊滅的打撃を受けた日本橋魚市場は、仮設市場での営業を経て、昭和10年(1935)に現在の中央卸売市場築地市場として開設されました。市場は、迅速・公正な取引を展開し、市民生活を支える大きな力となったのです。
昭和16年(1941)に太平洋戦争が始まり、食料品は配給統制となりました。その後、戦局の悪化に伴って物資の不足がはなはだしくなるとともに、仲買人制度の撤廃、働き盛りの職員の応召など苦難が続き、また、戦争末期には空襲などにより、市場は、食料品の統制が続いた戦後しばらくの間も、本来の役割を果たせませんでした。
現在の築地市場[提供:東京都]
統制が解除されて間もない頃の朝の築地市場(昭和25年頃)
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