掲載日:2023年1月18日

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ひもじかった学童疎開

月島にお住まいの八ツ橋經明さんは、昭和17年(1942)夏、月島第二国民学校3年生の時に、2人の若い女性教師に引率されて、上野駅から学童疎開に出発しました。まだ親が恋しい年頃の、都会育ちの子どもたちが、この日から4年間、秩父の山中で生活することになったのです。3年生2クラスの子どもたちが、お寺に宿泊して、地元の学校に通いました。

八ツ橋さんの学童疎開の痛烈な思い出は、とにかくおなかがすいていたことです。食事は三度三度出たものの、水っぽい芋まじりのご飯だけではとてももたず、落ちた梅の実や桑の実、ホオズキの実を食べ、粉ハミガキは甘いので喜んでなめました。畑の野菜を盗んで食べたと間違われて、一日中木に縛りつけられたこともあります。八ツ橋さんの家には小さい弟と妹がいて、面会は3~6ヶ月に一度が精一杯で、お父さんが東京から秩父まで自転車で来てくれました。終戦を知ったとき「これで東京に帰れる!」と飛び上がるような思いでしたが、実際に帰れたのは中学受験の直前の2月でした。
大半の学校が昭和19年(1944)の出発であったのに対し、4年間にわたる集団疎開は、非常に珍しい体験ですが、親とのかけがえのないふれあいを奪われた、取り戻すことのできない少年時代でした。

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