掲載日:2023年1月18日

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聖路加国際病院で救護活動

昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲下、聖路加国際病院(当時大東亜中央病院)には、1,000人以上の負傷者が運び込まれ、病院ロビー、礼拝堂、廊下続きの専門学校の地下体育館まで、ぎっしり収容されていました。安増(高橋)武子さん(当時19歳)は、聖路加女子専門学校(当時興健女子専門学校)の2年生、3月10日の東京大空襲の救護活動に報国隊として動員され、以後、空襲の都度、重傷者が担ぎこまれ、混乱状態の中を必死に看護にあたりました。
灰のように黒焦げの人、破傷風で硬直し水も飲めない人、傷口が化膿して、うじ虫がわき、臭気とうめき声。電力不足、水不足、薬品不足で野戦病院のような状態の中を、安増さんは、栄養失調と睡眠不足に苦しみながら、激務に耐え抜いたのです。3,4年生は、医師や看護婦とともに救護班として、空襲の都度、都内各地遠くは多摩地区まで出動し、救護活動や防空壕生活者の医療相談班として活躍しました。
聖路加国際病院は、このときの救護活動の経験から緊急災害時に機能を発揮できる病院として整備を重ね、この備えがあるからこそ平成7年(1995)の地下鉄サリン事件ですべての被害者を収容し、治療をおこなうことができたと伝えられています。

聖路加国際病院で救護活動 画:狩野光男 画像
画:狩野光男

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