掲載日:2023年1月18日
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戦時下銀座の女学生
柴田和子さんは、銀座二丁目の老舗米田屋洋服店とシバタ商店の長女として生まれ育ち、泰明小学校から、昭和16年(1941)、麻布鳥居坂の東洋英和女学校に入学しました。この年から女学校の制服は全国統一のヘチマ衿となりましたが、お古ならばよいということで、和子さんのお母さんは卒業生から古い制服を調達しました。「英」の字は敵国イギリスを指すからと、この年から校名が東洋永和女学校と改称されました。
女学校4年生となった昭和19年(1944)7月からは、学徒動員で、制服のスカートの上からもんぺをはき、鉢巻をして蒲田にある安藤電気という軍需工場で電波探知機(レーダー)のハンダづけ作業をしていました。翌年3月、和子さんは女学校を4年で繰り上げ卒業して、日本女子大学外国語科に進学しますが、戦時中は女子大に行くことが許されず、女学校の専攻科生として引き続き学徒動員で安藤電気に通っていました。
しかし極端な物資不足で満員電車で通勤しても仕事がない状態が続き、4月の空襲で工場も全焼、和子さんは女学校専攻科、女子大、工場に所属しながら、女学校も女子大も機能しないという状態のまま、終戦を迎えました。米田屋ビルは幸い焼け残り、女子大が開校したのは10月10日でした。
主以外の14歳から40歳までの男子は商業に従事してはいけないことになり、目黒雅叙園で送別会を開催(中央が東洋英和の制服を着た柴田和子さん)【昭和18年10月】
セーラー服のスカートの上からもんぺをはいて、学徒動員
空襲で逃げまどう人々の様子
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