掲載日:2023年1月18日

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焼けただれた泰明小学校

泰明小学校は、明治11年(1878)に創立され、島崎藤村や北村透谷をはじめ、数多くの著名な卒業生を輩出しています。当時、設備も進学実績も市内屈指、大正12年(1923)の関東大震災で校舎は焼失したものの、すぐに焼跡で露天授業を開始し、昭和4年(1929)には、現在に伝わる鉄筋校舎を落成しました。泰明の教育もますます充実していきますが、一方で戦争が進むにつれて銀座は急速にさびれていきます。泰明も昭和16年(1941)、泰明国民学校と校名変更、昭和19年(1944)には、3年生以上の児童が、埼玉県に集団疎開しました。
昭和20年(1945)1月27日の午後、泰明は、東京の本格的な最初の大空襲であった、いわゆる「銀座空襲」で直撃を受け、4人の女性教師が殉職されました。さらに5月25日の空襲ですべてを焼失、焼けただれた鉄筋コンクリートの外側と曲がりくねった鉄枠を残すばかりとなり、鉄くずと瓦礫の山で、足の踏み場もない状態でした。校舎のすべての復旧が完了したのは昭和27年(1952)、先生たち、保護者、同窓生、地元の人たち町ぐるみの深い愛情と熱意により、泰明は、銀座とともに、さらなる発展をとげています。

ツタにおおわれた外壁が美しい現在の泰明小学校 画像
ツタにおおわれた外壁が美しい現在の泰明小学校

外堀側から見た1月27日の空襲による爆撃の跡 撮影:石川光陽 画像
外堀側から見た1月27日の空襲による爆撃の跡 撮影:石川光陽

校庭に積み上げられた鉄くずと瓦礫の山 画像
校庭に積み上げられた鉄くずと瓦礫の山

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