掲載日:2023年1月18日

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「出征した夫の留守を守って」 森田 さだ江

テキスト

その時、娘は姉が連れて故郷の方に帰ってましたので、私一人でした。近所に大きな会社があって、ビルがありましたので、そのビルの中にみなさんご近所の方は地下へ入れていただきました。塚本さんってそこにございますよね。ご存じないですか。昭和通りですけどね。町会で会社の了解を得てやってくださったんだと思いますね。たくさんご近所のみなさんがそこに入りましたからね。いや、怖かったですよ。その当時はまだビルが焼けて云々なんて考えていませんでしたからね。だから、みなさんで地下室へ入っていろいろなお話をしましたけどね。後で考えてみれたら、やっぱりビルは怖いなと思いましたね。
長かったですね。空襲の時間がね。みんな焼けて、家が一軒も無いような。たまに、ポツンポツンと残った家もありましたよね。

店は焼失を免れ、仕事を再開

私は、ずっと店を守って帰ってくるまで待ってようと思ってましたけど、実家の方で空襲のひどいことが分かったものですから、帰ってこい、帰ってこいて言って迫られたけど、私はそれでもまだ帰るつもりはありませんでした。
やっぱり、生活の糧ですから。何とかしてでも守らなきゃしょうがないと思ってましたよね。でも最後に、子ども残してお前死んじゃったらどうするんだなんて言われたものですから、それで考えて疎開しました。
一回、私が戻ってきたことがあるんです。私がこの家を空けておいたので、よその方が入ってました。お年寄りの方と娘さん。娘さんとおっしゃっても50歳くらいの方でしたから、その方も昭和通りの向こう側で、焼けちゃったんですよね。それでやむを得ずに入ったんじゃないかと思うんです。その方も東京生まれの方ですから、田舎もないし、行く先もないんで、きっと空いていたので、幸いにしたんじゃないんですかね。それは文句言えないです。空けっ放しにすると壊されちゃいますから。かえって良かったかと思いますね。
私が戻ってきましたのは、昭和20年12月。そこにいた方もすぐ出てくださいました。
それからが忙しかったですね。朝は8時くらいでしたね。早かったですね。お店のカーテンを開けると2,3人表で待ってましたよね。開けないと呼ばれちゃうんですよね。もう昔からのおなじみさんでしたから、気安く、森田さん、森田さんって呼ぶんですよね。そうすると放っておくわけにも行きませんし、お昼は食事するヒマも無いくらいでしたよ。でも、夜は早く閉めましたよ。早くっても、今みたいに早くはないですね。昔は早くても8時頃まで店は開けておきましたからね。
食料は苦労しましたね。本当に配給が何人でどのくらいって、決められて、充分お腹を満たすほどはなかったですよね。一番はお芋で、後は大豆とか、トウモロコシの粉とか。
いや、仕事しているから出られないし、でも、買うといったって大変ですよ。ここら辺で買うわけじゃないですから。お金があっても品物が手に入らないですね。

昭和21年 夫が復員

夕方でしたね。表が閉まってるから、裏から入ってきた。私はビックリしましたね。まさかまだ帰ってくるとは思っていませんでしたから、エーって思いましたね。そしたら、うちの娘が言うことに、おじちゃんどこの人?って、こうなんです。安心しましたね。汗出ちゃうわ。
やっぱり、主人が帰ってくれば、もう私の責任も軽くなったっていう気持ちでホッとしましたね。

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