掲載日:2023年1月18日

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「縁故疎開で農村に暮らす」 萩原 冨久子

テキスト

織物業を営む父の取引先へ疎開

相手はお店屋さんです。その店の裏の方に3軒かな、同じような間取りの家があって、そこを貸していただきました。
私はまだ子どもだから、親が行くといえば、ただ親に連れられて行きました。
2、3日か、1週間か、間もなく農繁期休みになって、それが10日ぐらいあって、それは良いなと思いました。
「疎開っ子、疎開人形、わら人形」って、どういう意味か知らないけど、はやし立てられたりして嫌ですよね。嫌だけど、今のいじめと違って、あのはやし立ててもそういう陰険ないじめっていうのがないですね。

農繁期休みに農家の手伝い

6月ですから、小麦を刈るんです。そうすると刈って、根っこだけは残すわけです。私がやると残らないんです。引っこ抜いちゃう。だめだったよね。それでも、煮染めとご飯と、役に立たなくても一人前にいただいたのがうれしかったです。
後は、3里ぐらい離れたところに、松根油堀りっていうのがあって、敗戦近くになって、ご存じか分からないけど、男の人が松の根っこを掘って、私たちは松の根っこをV字型に傷つけると、そこに油がたれてくる。こんなんで飛行機飛ぶのかななんて思いましたけど、先生がやれって言うし。
お米の代わりにかぼちゃが配給になって、お米屋さんから4つくらいぶら下げて、途中休み休み帰ってきたこととか。それから、サツマイモ、芋じゃなくて蔓、蔓を食べる。あまりおいしいものじゃなかったですね。後は、祖母が明治の人で、割と野草なんか知っていて、ヨメナとかそういうことを教えてくれたから、それを取って食べました。お腹空いていると食べるのしんどいとか思いませんよ。まずいとか、おいしとかいうよりとにかく食べちゃった。
親は、いろいろタケノコ生活をやっていたと思いますけど、タケノコじゃなくて、もう剥くものが無くて、最後はタマネギ生活だと言ってました。芯が無くなっちゃうんですよ。タケノコだと残るけど、タマネギだと中は残らない。親は子どもは見るもんじゃないとか、聞くもんじゃないとか言って、あまり教えなかったですから、そういう自分の生活の苦しいとか。戦争中は父の着物は着ないから、そういうものばっかりこっち持ってきて、父の着物で一生懸命食べたんじゃないですか。私が聞いた話は、疎開のくせに絹物着ていると言われたけど、木綿はみんな食べちゃって無いのにって、母親がブツブツ言っていたのを、そうか、そういうもんなのかと思いました。

昭和22年の秋、東京に戻る

やっぱり、うれしかったですよ。友達もいたし、帰ってきている人もいたし、それなりに言葉のいじめというほどじゃないけど、疎外感みたいなものもあった。それは育った環境と、親の教育とかあるからそれはしょうがないでしょ。だから、別に、その時は、あの人たちはそれなりに、仲良くしてくれたんだなと思って。大人になってから思うとそんなに・・・。良かったんじゃないか。親切にしてもらったんだなと。それはそれで近所の人なんかも親切にしてくれたからよかったんだと思いますよ。そういう意味では疎開していい経験だと思います。ずっとここにいて、経験しないよりは良いと思いました。

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