掲載日:2023年1月18日

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「富沢町で遭遇した東京大空襲」 近田 勝己

テキスト

みんな引き上げちゃった。いよいよ焼ける頃となりますと、みんな店自体、奥からお店全部空っぽなんですよ。
あの頃、バケツリレーとか何とか言ってましたけど、とてもそんなことを平生からやっている町会じゃないですから、まず逃げろというのが親父の感覚でした。

3月10日 東京大空襲

いっぺん警戒警報が鳴りまして、何だか、また来たなという程度で、また寝ようとしたんですよ。そしたら親父が、まだまだちゃんと着るもの着ていろと。そのうちに、ドカドカ始まっちゃったわけですよ。それで何だというわけで、2階に上がって窓からヒョイヒョイと見たら、一番最初に目に入ったのが、久松小学校の前の屋根より高く火柱が上がってる。親父はポイントポイントで、よく知っている方のところへすぐ駆けつけたって感じです。
私はあくまでも家を守ってました。これだけの荷物。貴重品をリヤカーに積み込んで。うちのお隣が夜は誰もいないでしょ。空っぽなんです。そしたら、その建物の2階の窓から煙りが出始めたんですよ。それで、頭から私は逃げるよと、リヤカーに荷物を積み込んでお袋と弟で逃げ出したわけです。
私はリヤカーを夢中で引っ張って、お袋は後ろからくっついてきて、お袋に弟がへばりついていた。風がひどかったんですよ。あの時、北風で大変な風だった。
11月の28、9日頃。これがあの本町方面、本町室町が空襲に遭っている。三越、三井。その前の小さいビルは焼けているってことは何となく私は分かっていたから、焼けたところ行けば、焼けようがない。だからそこへ逃げると決めた。もう店を出たとたんにポッと浮かんだんです。
ビルとビルの間の路地へ潜り込んでいた。空襲も終わり、明るくなりまして、親父の消息は分かんない。それから、私どもは、お袋と一緒に十思小学校にみなさんが避難しているよというのを聞いて、そっち行ったわけです。
結局、親父は、店は燃えたし町内会も全部燃えてしまったから、小倉石油の下を見たり、それから十思小学校の方に来て、一緒になったんです。親父が探しに来てくれたんです。
それで、掘留の一丁目に親戚がございまして、そこは燃えてませんから、おい、あそこ大丈夫だぞ。そこへ集まれと言うことで、親戚のところへガサガサと、何所帯も。9時10時には完全に落ち着いて、それで焼け跡を見に行きました。

自宅は全焼、商売用の物資は焼け残る

店のところに畳一畳敷きくらいの穴を掘っていたので、その中に自転車屋である程度の物資、自転車の部品、そういうものを入れてあったり、それから、相当大きな缶。米びつにいっぱいのコーリャン米。それを放り込んでおいた。中のものは完全に無事でした。
それで、21年に店作っちゃいましたから。翌年。あの現場へ。自分のところへ。親父が作った頃は一番早い時点じゃないですか。結局、親父が本当に頑張ってくれた。親父はもう一歩も退かなかった。

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