掲載日:2023年1月18日

ページID:575

ここから本文です。

「空襲にも負けず店を守り抜く」 馬場 トシイ

テキスト

ちょうど19年の9月に、うちの長男が生まれたんですよ。その時に三越の前に爆弾が落っこちたから、子どもが小さいからどうしようもなくて、姉と子ども(長男)と長女を田舎へ帰したんですよ。実家の方へ。それでしょうがないから私と母で二人で商売をやってたんです。
あの頃は大変でしたよ。お酒もお醤油も計り売りだったんですよ。だから、そのお醤油の配給品を取りに行かないといけないので、リヤカー引っ張って、あの清洲橋の坂が登れなくて、大変だったんですよ。一斗樽5本くらい積むとあの坂をリヤカーで上るのは大変なんですよ。母と二人でやっても。
お店に二畳ぐらいの部屋があったから、そこへ靴を履いたまま横になっているだけで、全然寝てられないんですよ。

3月10日 東京大空襲

母は、そこに小倉ビルっていうビルがあるんですよ。あそこのお宅に頼んで、ビルの地下に入れていただいて、母だけを送って置いてきて、私は戻ってないと、お店のものが無くなっちゃうから、防空壕にも入れないし、入ると品物みんな持って行かれちゃうんです。
波状攻撃というんですか。行ったと思うとすぐ後からB29が来るんで、もう大分低くて、ものすごい音で、低く飛ぶとガラスが割れるような音がするんですよね。日本の飛行機が、きりもみになって、落ちてくるのも見たし、すごいですよ。日本の飛行機は小さいから、B29に当たるとすぐに、パーときりもみみたいになって落っこちてくるんですよ。だからもう、何もしようもないんですね。ああなってくると。
そのB29の爆弾が上から落ちてくる時は、大きいんですけど、途中でバンドみたいものが外れてバーッと小さいのが落ちてくるんです。油脂焼夷弾って言ってましたけど、油が入っていたみたい。それが落ちるとバーッと火になっちゃう。日本橋から神田の方に向って風がちょうど吹いていたんで、神田の方に燃えうつっちゃったんです。うちは昭和通りがあったんで、こっちは助かりました。昭和通りから三越の間は全部燃えちゃった。私はどっちにも動けない。お店があるから。逃げようたって逃げられないし。怖くっても、そうなっちゃうとどうしようもないから、怖いなんて言ってられなくなっちゃうんですよ。もう死んじゃうんだからと思っちゃうから。

空襲後、食糧事情が一層悪化

米はほとんどないですよ。大体トウモロコシがきて、広げてみると、みんなカビてるから、きれいに洗って干して、また食べたりしました。闇で買う方もいるけど、私たちは二人だから、買い出しなんか行かれません。だから、食べ物というのは本当になかったんですよ。
お塩は全部配給なんですよ。うちの分として来ているからいくらもないんですけどね。だけど、焼けてみえる方がいるんで、3回も4回も焼けた方は何にもなくなっちゃってるから、うちの分として配給になった分を取っておくんですよ。それで、焼けた方が何かありませんかって来るので、お砂糖はなくて済むんですけど、お塩がないと味がないから何にも食べられないんで、しょうがないからうちの分で取っておいたのを焼けた方に少しずつ分けてあげて、焼けたところから拾ってきたお塩をうちの方で使うようにして、配給の塩はお客さんになるべく渡してあげて。
やっぱり、ああなってくると、自分のものだなんて、言っていられないんですよ。この辺でも両国の川っ淵のところは、夜なんか通ると、みんな女の方が裸足で、浴衣一枚で、泣き泣き歩いていらっしゃる方もいらしたしね。大変でしたよ。あの頃は。

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?