掲載日:2023年1月18日

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「15歳の東京大空襲体験」 石倉 知之

テキスト

空襲警報が鳴ると家の中の防空壕に入っていました。でも、こんなところに入っていたらかえって危ないんじゃないかという思いでした。
姿は防空ずきんの上に鉄兜を被ってました。もちろんゲートルも撒いている。
私はここの角の十字路のところに今もある電信柱の影にいました。六角形の焼夷弾が頭に直に当たって死んだっていう話も聞いてましたから、あの時の気持ちとしては、電柱の側にいれば少しは大丈夫かも知れないと。
B29が、本所の方(南)からどんどん来る。それがすごい数で。しかも、ものすごい低空なんです。B29の機体の下面、特に翼の下面はちょうど、たき火の上にトタン板を置いたように赤く反射して、下が燃えているのが映ってました。
人形町通りの向こうの道に焼夷弾が落ちて、火がつきながらバーンと跳ねたのをこの目で見てますから、落ちてくる音っていうのはすごいです。シューっていう音で。
物干しに上がって回りをずっと見回すと、丸糸さんの3階の窓がポッと赤く明るいから、そこに落ちた。そこから始まって防火帯ができてましたから、二間ぐらいの幅で今の住友銀行側が焼けただけで、こちらには来ませんでした。だから、ここは火の海の一番ボーダーの外側ですから、家を壊した材木が積んであって、それに火がつかないようにと前の玉木さんは銅板張りでした。銅板張りは輻射熱を吸収するから、そちらに水をかけたり。
私は中学校3年生だったから、お前水汲んでこいって言われて、各家の前の防火用水から水を汲んでポンプに運ぶということをやりました。怖くなんて全然なかったです。
そうすると家は焼け残った。焼け残ったなら学校に行くべきだと。それで、錦糸町のこっちの江東橋にある都立三中(昭和18年から)へ行くのに両国から両国橋を渡って、緑町まで行ったら、黒いマネキン人形がひっくり返っていた。ああ、マネキン人形が焼けているぐらいのことで、どんどん歩いていくと今度は三つ目通りまで行ったら、その数がもういっぱいでした。これはマネキン人形じゃない。人が死んだんだ。とすぐわかりました。江東橋を渡って、すぐ右の角が三中ですから、そこに入ると校舎は焼けて、校庭に真っ黒な人がこんなんなって、今でも姿は覚えています。まあ、たくさんいたと。とても気持ち悪い。怖いっていうことだけです。
帰りは、京橋から中村梅吉君が学校へ自転車で来てたから、私は中村梅吉の自転車の後ろに乗せてもらって帰りました。もう怖いから目をつむってました。運転している方は目をつぶれないから、気の毒だなと思いながら。
12時半から朝の4時頃までだから、3時間半ぐらいの間に10万人も亡くなってる。大虐殺ですよ。小林も、伊藤も、みんなその日に死んじゃったんだ。死んでも一家全滅だから、死んだって報告は学校にはないわけです。でも来なくなったから、やっぱり、あの時死んじゃったんだろうと。そういうやつのこと思うと本当かわいそうで仕方がない。3月10日の犠牲者は、あの震災記念堂で、関東大震災の法要をやるついでにやっているような感じで、本当かわいそうです。あれなんとかしてもらいたいと思います。小林や伊藤に代わって言いたいですね。

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