掲載日:2023年1月18日

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「明治座から生き延びて」 秋山 晴央

テキスト

3月10日、東京大空襲

寝てたと思います。警報で目が覚めて、とにかく洋服に着替えて、その時、飛行機が来たので屋上へ上がったら、すぐに焼夷弾が落ちてきて、シュルシュルとすごい音でした。相当低空で入ってきてる。私と父と弟ですぐ消す体制に入って、ほうきみたいなものに水をつけて消しました。あと下から水をポンプで送ってくれた人が何人かいました。焼夷弾というより隣から移ってくる火を消しました。最初はそうでもなかったですけど、そのうち相当ひどくなってくると、放水が止まったので慌てて下へ降りたら、ポンプをやってた連中はみんないない。逃げちゃっていなかったです。ポンプが置きっぱなしになっていました。
地下室に親父のお酒(一升瓶)があったから、それを持ってきて、弟と三人で、茶碗で二杯ぐらい飲んで。これ以上飲むと危ないからと止めて、すぐにリュックをしょって。リュックには着替えだとか、ハンコだとか、大事な物を詰めていました。それで、リヤカーにその辺にある食料を乗っけて、中には大豆もありましたけど、とにかく食料になるものを積んで逃げたわけです。
それで、通りへ出たら、浅草橋の方からの風がすごくて、風に押されて明治座の方に向かって逃げたんです。警察の前を通って。そしたら、警察の前の橋が落ちてその先行けないので、リヤカーを置いて、また元に戻って明治座の方に逃げました。
もっと真っすぐ中之橋の方へ行こうと思いましたけど、明治座の脇のドアの前に親父の顔見知りの警防団がいて、普通はもう入れない体制だったのに、その人が開けてくれて「入れ、入れ」って。中へ3人入りました。
それで、花道のところに座って、一時は助かったという思いはありました。もうここまでは火が入らないだろうと思いましたけど、そのうち、弟が花道から落ちたと思ったら、もう仮死状態でした。ほとんど息をしてなかった弟を引っ張り出そうとしていると、今度は裏の舞台の方から煙りがきて、これは危ないと思っていたら、向こうから火が入ってきて、すでに入口のところに人が倒れていましたが、足を捕まれたから振り切って逃げました。自分ではそう思ってないけど、やっぱり、亡くなった人に対しては罪悪感あります。だけど、とにかく弟を引っ張り出そうっと、親父と一緒に引っ張ったけど仮死状態だから重くて、それで入口のところでしょっていたリュックサックも捨てて、やっと外に出られました。よく分からないですが、後で話を聞くとその時だけ開いたという話です。
その後、浜町公園へ行ったら高射砲陣地にまだ弾薬があるから中に入れてくれないので、また通りを戻って、白石さんのお家の塀の影に隠れていたら、火の粉がすごかったです。やっぱり、その時も飛んできて。
朝、明るくなってきて、親父は町会の役(役員)をしていたから、先に東華小学校に行って、その後、私と弟が小学校に行ったら、にぎりめしを配給していて、そこで初めて食べたんです。ああ、おいしかった。何にも朝食べてないところへ行きましたから。
もう目は痛くて、顔なんかすすけてひどかったと思います。よく本当助かったと思ってます。翌日、明治座に行ったら、憲兵が中で焼けた人をトラックに乗っけてました。
戦争は嫌です。本当にやらないほうがいいです。

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