掲載日:2023年1月18日

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「明治座の惨劇」 有田 芳男

有田 芳男 プロフィール 画像

テキスト

私にははっきりとはわかりませんが、誰が行っても入れてもらえないはずなのに、この辺のお年寄りは、女、子どもが避難する時には明治座に行けと言う人もいたようです。
一丁目、二丁目、三丁目の人達は、通行証のようなものがあって、それを見せても入れてもらえなかったのに。
私たち蛎殻町、それから人形町、この町内の人たちはまず入れてもらえなかったように思う。避難所であったので、病院の人は、空襲警報が鳴ると、夜であれば必ず明治座に避難していたという話は聞きました。
明治座は燃えないと思っていました。避難する人は明治座に避難するように町会の偉い人からアドバイスがあったくらいですから。最初の空襲の時は、焼夷弾が落ちてきても大丈夫でした。ご存知だとは思いますが、焼夷弾というのは六角形の長い筒状の鉄で、中に重油を満たしたボロ布を入れてあります。それが36本か、50キロとか500キロ爆弾というのを上から落とすとパッと散って、落ちてくる。風があった日はB29から落としても真っ直ぐなんて落ちないんですよ。だから、明治座の後ろの金網で出来ている丈夫なガラスを破って、楽屋裏の大道具、小道具の木製品がいっぱいある場所に落ちて来た。それがくすぶって燃えて、パッと火が点いて、一挙に明治座が火の海になったという話なんです。
これはもう、凄い惨状なんです。
あの明治座前の広い通り、昔は金座通りといったんですが、清洲橋から浅草橋へ行く道です。明治座が燃えている。そこにいっぱい避難した人がいるんですけれど、その人たちが皆、頭を何というのか、少しでも明治座から離れようとするように、30メートルくらいはあるあの広い通りを、全部頭を明治座とは逆に向けて倒れていたのです。
その数がちょっと見ても10人位で、後で聞くと、竜巻が起こったり、いろいろな事があって、こっちへ渡ってくるのも大変だったということらしいです。

一夜明けた明治座の様子

あくる日になって、すぐ近くの小伝馬町の十思小学校の校庭と十思公園が死体収容場所になりました。それも3日間の約束で。
そこの死体は、見ても燃えてしまっていて誰なのかがわかりませんでした。着ているものも何も残ってなかったからです。そのうえ体も真っ黒で曲がっているし、男女の区別も分からなかったようです。でも、それは明治座だけのことではないんです。
浜町界隅で亡くなった身元不明の死体は全部あそこに持っていった。
今だからそう思うのですが、初め見たときは大変でした。子どもごごろにも、ずっと一日死体の匂いがしていて、昼も晩も食事ができなかったことを覚えています。匂いが鼻に着いて、夕方帰ってきても匂いは消えませんでした。
死体をみてもどうとも思わない。もう目慣れてしまったというか、麻痺してしまったんです。
それが本当の話だったのではないでしょうか。

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