掲載日:2023年1月18日

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「聖路加病院の救護活動」 安増 武子

安増 武子 プロフィール 画像

テキスト

当時の聖路加病院

米軍の飛行機がビラを落としてました。その内容はもうすぐ戦争が終わる。戦争が終わったらもちろんアメリカが勝つと書いてありました。勝ったら聖路加病院は米軍の病院にするために絶対焼かないというので、たくさんの人たちが病院に逃げてきました。
それを見て、私も窓から見ていたら、確かに落としませんでした。何百機という編隊がきて、月島でバンバンバンと落として、月島を超えたら隅田川でした。
隅田川を越えるときはもうパタッと一機も焼夷弾を落としませんでした。それで聖路加を超えたところで、またバンバンバンバンと落としてました。
ちょうど聖路加を超えたところに、今は埋め立てられていますけれど当時は川があって、そこを超えたら築地本願寺。そこまで行くと何百機が全部一斉に落とすというような感じでした。それをみんなわかってましたから、たくさんの人たちが聖路加に逃げてきました。戦争中は、聖路加に逃げれば助かるんだっていう感じでした。

最初の負傷者

そこに担ぎ込まれてきた二十歳くらいの一人の青年を手当したんですけども、程なくその人は亡くなりました。
その人は警防団の人でしたが、自分を皇居のほうに向けてくれという事で、向けたと同時に息を引き取りました。その時は、かなり泣きましたが、泣いたのはその時が最後でした。その後、次から次へと担ぎ込まれて、3月10日は本当に泣ける状態ではないという…。3月10日は、記録を見ますと千人以上の人が担ぎ込まれてきた。だから、病院に一度に千人以上の人たちが担ぎこまれてきたっていうのは、どんな状態だった…。今だったら想像もつかないと思いますけど、その時から病院の中が戦場のようになってしまったというような状態でした。

院内の様子

若いドクターは、かなり戦地へ医師として応召されていたので、数が非常に足りなくて、それからナースも数が足りなくて、学生が全員出てました。
みんなが一丸となって救護活動をやっておりました。それで3月10日も担ぎ込まれてきた人たちを、それぞれみんな、学生も班を作っていましたので、病室は一杯で、病院のロビー、それから廊下、私は学校の体育館にずっと詰めて毎日、救護活動をしました。運ばれてきた人たちを、一生懸命、本当に無我夢中で手当をしていました。

負傷者の手当

私が、一番印象に残っているのは、男性か女性かわからない、真っ黒焦げな人が担ぎ込まれてくるんです。それはもちろん重度の火傷です。そういう人たちはもうすぐに亡くなるという状況でした。
そういう人ではなくても、たくさんの人が破傷風になりました。破傷風になると口が開かなくなってくるんです。筋肉が硬直して、水も飲めなくなってくる。そういう人たちに口を開けて水を入れてあげたり、そういうことも看護の一つで大変な状態でした。
私たちは、包帯を巻いても、すぐ汚れてしまうのを絶えず洗っていました。学校の洗面所で、それをみんな洗って、干して、また新しい包帯と取り替えてあげるとていう状態でした。本当に今の救護活動というものではなかったです。
とにかく、救護活動で手当をしている最中でも、みなさんのうめき声が大変でした。苦しい、苦しい。うめき声とすごい火傷の匂い、それからだんだん経ってきますと、傷口から膿が流れてくる。そういう匂いもあっていろいな臭気がありました。
それはもう部屋いっぱいに広がって、うめき声と臭気の中で、走り回って手当を無我夢中でしました。
ほんとに普通ではいられない、平常ではいられないっていう、そういう精神状態で、涙も枯れて、心が凍りつくような感じでした。
感情が凍りくような状態の中で、もう只々一生懸命手当をしてたっていう状態でした。

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