掲載日:2023年1月18日
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「戦時下銀座の暮らし」 柴田 和子
テキスト
元々は米田屋洋服店といって、紳士服を作る仕立てです。
明治15年にできまして、日本で一番古い洋服屋の一つで、初代の伊藤博文総理大臣を初め、歴代の首相のほとんどがお客様でした。
それから、柴田羅紗店。羅紗というのは、紳士服の生地でウール(羊毛)のことです。それも昭和10年代の後半からは、イギリスから羅紗を輸入していました。イギリスが敵国になりまして、羅紗が輸入出来なくなったので、婦人服とか婦人用品、婦人服の仕立てをしていました。
でも、途中からそれも出来なくなってしまいました。
当時の人々の服装
女の人はモンペです。着物の袖を短く切って筒袖にして、それから下は、着物の代わりにモンペを履いていました。
それから私たち学生は、本来の制服というのはセーラー服でスカートですけど、スカートは履いてはいけないと言うので、モンペの様なズボンをスカートの上から履きます。ダブダブのズボンで、これを母が作ってくれて、お手製のズボンを履いてまして、それから外に出る時は、いつも防空頭巾を被っていたように思います。
でも当時は、純毛とか純綿が無くてスフ(ステープルファイバー(人口服地)の略)が多かったので、ツルツルした生地でした。縛ってもスルスルと解けてしまって、冷たいぺチャぺチャした生地しか無くなっていたようです。
戦時下のお風呂
うちは5階にガス風呂がありましたけれども、途中からはガスが使えなくなって、銭湯に行きました。多分、大黒湯とか竹の湯とか、でもその銭湯は毎日やっているわけではなく、行っても凄く混んでいて入れませんでした。
順番を待って入っても、今度は桶が見つからない。男湯は湯船に入る時に、桶を空にして湯船に入るようですが、女湯の場合は自分の手拭いを桶に入れて、桶を確保してから、湯船に入るので、後から来た人は桶がなくて体が洗えない。
お風呂は凄く混んでいて、湯船に入るのにも片足を入れたら、もう一つの足が入らないくらい混んでいて、やっと中に入れると思ったら、今度は熱いお湯が襲ってきても逃げ場がありませんでした。
それで、やっとの事でお風呂から上がって出てきたら今度は、衣装が盗まれている。それから下駄や靴も盗まれているということで、お風呂は嫌でした。
そのうちに、戦災にやられた銀座通りのちょっと奥の方に、ドラム缶を縦に立てて、そこで、お風呂に入っている人がいるんです。でも、こうなれば近所の人は皆知り合いですから、そのドラム缶に入れてもらったことを覚えております。
物陰で着ている物を脱いで、こちらもちょうど思春期でしたけど、そんな事は言っていられず、良い気持ちでした。青空の下でドラム缶に立ったまま入りました。
お風呂は戦争が終わってからもしばらく入れず苦労しました。
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