掲載日:2023年1月18日

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「双子の弟たちを守って」 吉川 輝男

吉川 輝男 プロフィール 画像

テキスト

初めの警戒警報くらいはのんびりしてますが、空襲のときに飛行機が低空で飛んできて高射砲の破片が、屋根に落ちてくるような状況になると、これはもういよいよ大変だぞということになりました。
防空壕に移ろうと皆で壕の中に入ってしばらくすると、列車がそばを通過するようなゴーっと物凄い音がして油脂焼夷弾が直撃すると、辺り一面がすっかり明るくなりました。
ご存知だとは思いますが、油脂焼夷弾というのは、自転車のパンクのりのようにベタッとしたものが、落ちた瞬間に周りに飛び散って火が点きます。
ですから、周りのガラスに点いた火は、ガラスの上で燃えているような状態で、油脂焼夷弾が屋根を突き抜けて天井裏で火が散ると、本当に消火できない状態になると思います。
急いで、普段荷物を積んでいるリヤカーを引き出しまして、建物疎開地まで逃げる間に、辺りがちょうどお芝居の花道を歩いているかのように、家ではなく焼夷弾の薬が燃えている中でリヤカーを引いたのを覚えております。

双子の弟の様子

お婆さんが一人おぶって、もう一人を母親がおぶって逃げていました。今でもよく言うのですが、背中の子が動かなくなってしまったみたいだけどって…。でも、いまは見てもしょうがないし、明日の朝までおぶっていないと駄目だよと2人でやりとりをしていた。そんな話を聞いた事があります。

一夜明けた街の様子

焼け死んだ方を全員集めて、そのまま火葬していました。独特の匂いが街の中いっぱいに広がって、歩いているうちに当たり前のような感じになりました。
私が一番印象に残っているのは、焼け死んだ馬の肉が切り取られて持ち去られていた光景を見た時は、本当にギョッとしました。今でも何か変な物見てしまったという印象が残っています。
よく3月10日の大空襲といいますが、私は3月9日に直撃を受けました。
後で見ると、中央区と江東区に架かっている橋の付近が、すべて集団攻撃されているわけで、平均的に油脂焼夷弾を落としたのではなく江東区の方がこちらに来ないように、周りから段々と火が絞り込まれるように、あの時の空襲が行なわれたような気がします。
これも後で聞いた話ですが、あの時落とされた油脂焼夷弾は、この東京の空襲のために、新しく開発された兵器だったということです。
確かに、あの頃、木造が多いし一番有効で一番確実な兵器だったと思いますが、本当に戦争というのは凄い非情なものだと思います。

当時を振り返って今思う事

空襲が、いかに効率よく全員を殺すか。凄い非情なものだという印象があります。やはり、戦争はしたくないですね。

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