掲載日:2023年1月18日

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「炎上するわが家を見つめて」 布施 徳

布施 徳 プロフィール 画像

テキスト

3月10日の街の様子

深川にいる友達が出てこないので、友達と様子を見に行くと、まさに地獄そのもののような物凄い光景を見ました。消防自動車や電車は焼けてしまっているし、馬もゴロゴロ死んでいたし、人間は皆真っ黒でした。
これではとても友達を探せないので、隅田川へ行くと、今度は川にたくさんのブクブクにふくれている死体が浮かんでいました。あまりの匂いと物凄い光景を見てしまったため、それから味噌汁が飲めなくなりました。
それが3月10日のことで、その時、私の住んでいるところは焼けませんでした。
それから、4月に4年生になって、5月24日の空襲で焼けました。
3月10日は、昔でいう陸軍記念日で、連合軍はその日を狙って攻撃したということのようです。日本の家は、紙と木でできているので、爆弾ではなく焼夷弾で攻撃したんです。

家が焼けた日

空襲の時、B29は物凄く大きく低空飛行で、煙の中から姿を現して、まるで模型飛行機のように見えました。じわりじわりと銀座の方から焼けてきて、私の家は電車通りに面していたので中通りまでその様子を見に行きました。
火の勢いは物凄くて近寄れないのに、消防の人達は近くまで行って、よく水が掛けられるものだと思いました。
それが、うちのそばまで焼けて、3軒、2軒と近づいてくると、ちゃぶ台とか適当な物を持って家から逃げて、鍛治橋の上で家が燃える光景を見ていました。家に火が燃え移ると、撮影をするために使っていたマグネシウムの在庫に火が点いて、ドカーンと、まさに家が焼ける断末魔そのものでした。
大変な光景でした。これが5月24日の家が焼ける時の状況です。
家が燃えたのは早朝でしたけれど、空襲の時間は意外と長くなかったです。
しかし、焼跡を見に行くと何ひとつ残っていませんでしたが、もの凄く熱かったのを覚えています。
私は家から逃げる時に何を持って出ようかと色々悩みました。中学に入った時のお祝いにいただいた電気スタンドを非常に大事にしていたので持って出ようかと思いましたが、焼け残ったら、また取りに来ればいいと。しかし、柱1本も残っていませんでした。すべてが完全に灰になってました。
焼跡を見ると、元々広い家ではありませんでしたが、よくこんなに狭い土地で生活していたなと思うほどの広さでした。

家を失って

不思議なことに、やっと一人前の日本人になったという感じでした。
悔しいとかも思いませんでした。
あの当時は、国から出る罹災証明書がないと配給ももらえなかった時代でした。
親父が町会関係でその罹災証明書の担当をしていましたけれど、その罹災証明書は家が燃えないと手に入らなかったので、うちも家が焼けたことによってやっと手に入ることになりました。
不思議な感覚でした。親父も家が焼けてホッとしたというようなことを言ってました。周り中燃えていましたから家が残っていると非国民風な変な感じでした。
これがあの当時の状況で、今ではちょっと信じられません。

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