掲載日:2023年1月18日

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「戦後の復興と久松小学校」 大和 裕子

テキスト

久松はもう荒れ果てた学校でした。2階、3階は歩けないし、みんな壁が落ちて、歩くのだって、壁からもボルトが出ていましたし、天井もそう。みんな赤錆びたようなのが出ている。だから、そういうのはちょっと怖かったです。
やっぱり、子どもが怪我しないようにと思いますから。
そして、先生だってその前の年に、やっと少し人数が増えたようでした。もうみんないなくなってしまった。あたしと一緒に来た人たちは7人くらいいました。だから、その時に増えてきた。
私が4月に行った時も、もちろん少しは増えていましたけど、二学期の9月の始めには、玄関が職員室でしたが、玄関のドアがまだきちんとはまらない。そういう危ないところでしたけど、そこから、子どもの列が出て、ずっと学校の回りを取り巻くようにして、みんな復帰してくるわけです。それでずいぶん増えました。
町の人たちは、横山町に問屋がありますでしょ。みんなバラック建てのようなところに早く引っ越してきたわけです。ということは、やっぱり、自分たちの店を早く復興させないと問屋街がめちゃくちゃになっちゃうから、もう帰ってこないと。
だから、問屋さん同士でもお互いに連絡し合って、なるべく早くバラックでも何でもいいからということで建てたようです。私が行った22年頃は、バラックと言うほどでもないけれど、みんな古いトタンやなんかでカバーしたような建物がたくさんありました。
子どもたちは服装からいうと、問屋街の子どもだから、ちゃんとした学生服着ている子もいたけど、やっぱり、親のものだとか、子どものもので、問屋さんだからどちらかに疎開してもあったかも知れませんが、子どもらしくもんぺを作ってきたりとか。まあ、千差万別でした。
私が家庭訪問に行くと、反物なんかあると、このくらいの幅の部屋しかなくて、反物が積んであって、反物と反物の間が、このくらいしか通れないようになっている。全部の人に聞いたわけじゃないけど、一人、二人に聞いたら「この人たちどこに寝ているの?」って聞いたら、夜は荷物が置いてある間のところに布団を敷いて、そこに寝る人もいるんだと言っていました。その当時は、問屋さんもお金のあるなしではなくて、材料もないからかも知れませんけれど。

廃校の噂

久松小学校は、焼けてしまったから廃校になるという噂があって、でも、廃校の通知が来ていた。だけど、町の人たちが、伝統があるし、古い学校だから、廃校になるといけない。それだけの熱意があったようです。特に、横山町、馬喰町辺りは、有名な名前の方が何人もいらっしゃるからだろうけど、そういう方々が集まって、今日は材木入りますよっていうと材木のところに、ちゃんと町会の名前が入って、この部屋は何町会の材木が入ってやるというふうにして。壁とか。床とか。
もう、ただうれしいってことだけです。こんなにまでやってもらって、良かったねって、子どもたちもよかったねと。今度は気をつけて歩かなくても、少しは安心して歩けるわねって、いうことです。
やっぱり、町の活力っていうのか、子どもたちのためにっていうエネルギーが、普通の学校ではなかなかやってもえなかったと思います。問屋街も早く活動したい。子どもたちも一緒に住まなくちゃいけない。昔みたいに立派な家があって、そこに子どもの部屋もあってというわけにはいかない。だから、多様な要素を考えて、問屋のご主人は子どものことも大事だ。もっとも勉強もよくやった学校らしいから、子どものことも考えて学力も。ほっとくと歴史を持った久松の学校がなくなると困るということもあった。
子どものことと、商売のことと、雇っている人のことと、そういういろいろな要素が集まって、すごい活力だったと思う。しかも、その中に先頭に立つ町会の人が、何しろあそこら辺には、そういう人たちが合同して、極力話をして、やってくれました。だから、幸せでした。

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