掲載日:2023年1月18日

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「山村での集団疎開」 小泉 太郎

テキスト

私の場合は遠足に行くような気持ちが強かったです。
やっぱり、日にちが経つにつれて、ガキ大将でも親のことを考えたら、会いてえなと思ったり、たまに入ってくるニュースでも東京方面の情勢がどんどんどんどん良くないニュースばっかりになってくると、会いたかったですよ。親に。
親が来てくれたんだけども、いずれにしても親が駅から来る日はみんな分かってるんです。
お寺っていうのは、たいがい小高いところにあって、一般の道路から5~6メートル上がったところで。田舎のことだから、遠くの村道みたいにバスが走ってこられるようなところを親がゾロゾロ来るのを、みんな今か今かと。みんなどんな格好しているのか見てるんです。飛び上がったりなんかして。
それから、うれしかったのは、自転車で走ってくる郵便配達。あれがね。向こうから来ると、誰かの頼りなのか、みんな見たくて。
やっぱり、もちろん、親御さんの面会と、次ぎに郵便屋さんが東京からの便りを持ってきてくれるのが、とても待ち遠しいっていうか、楽しみでした。
ある日突然、一人、二人と脱走して、お寺から8キロ離れた駅、もっと近い駅は7キロくらいかな、武蔵野嵐山ってところは。親恋しさに駅の方へ逃げていく子がいるんです。3年生が多かったですけど。駅が2つあるから、私ともう一人が自転車で追跡を始めるんです。
たいがい駅に行く前に農家で乾燥芋か何か食べながら、オイオイ泣いてる奴を捕まえて連れて帰ってくるんです。3年生はかわいそうでした。
最初のうちは、割合と勉強が多かったんですけども、何ヶ月かすると食糧事情が田舎といえども相当悪くなりまして、何反歩か田んぼを貸していただくと、田植えはできないにしても、例えば収穫の時の自分たちの稲の刈り込み。それから、桑畑を掘り返して、その食料になる芋畑、サツマイモ畑にするんだといって、根っこをほじくり出すとか、労力奉仕が結構出るようになりました。
一番困ったことは、集団疎開に行ったときはズックで行くんです。運動靴で。すると間もなく運動靴の底が破けて、他に履くものは下駄や草履なんで、藁草履も自分で作るんですけど、やはり、ズック履いていて、底がないんです。でも、ズックだけ履いていくと、舗装で慣れた足の裏がやけに痛くて、みんなである山に薪を背負いに行くと、特にずっしり重く、薪の重みが背中にしょっていくと、足が痛くて、足が痛くて、その痛さはいまだに覚えています。
疎開先の村は、畑見てても見渡す限り青海原でずっとある平野みたいなところはなかったし、あまり大きくない山間の小さな寒村まで行かなくても、そんな収穫のない村に僕ら行ったんだなって分かりますよね。

分宿先で

とても親切でした。集団疎開の食料が底をつくと、先生が『分宿』って名前のもとに、村長のうちは例えば「8人行け」、助役のうちは「6人か7人行け」とか、校長先生のところは「5人行け」って、分散させるんです。
そこで、2~3日、集団疎開側の先生と受け入れ先と話ができていて、そこに行くと、いつも集団疎開で食べられないような手打ちうどんが出てくるとか、中には銀シャリと称する白米が出てきたり、それで、2~3日そこで過ごす。それはそれなりに強制じゃないけど、雑草を抜いたり、お手伝いをするんです。

お世話になったみなさんへ

急に80人がどさっと行って、それは、それは田舎の人は大変だったと思いますし、田舎の人の働き手は、さっきのお寺の住職じゃないですけど、皆さん、一番働く人が戦地に行ってたと思うんですよ。その中で供出するってことはね。本当に田舎の人には感謝してます。でも、受け入れてくれた人たちは、当時の人はほとんど亡くなってます。みんな息子さんの時代です。ぼくらの親の年ですからね。

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