掲載日:2023年1月18日

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「降り注ぐ焼夷弾の中を逃げた5月24日」 佐野 英子

テキスト

1月27日 銀座空襲

まず最初に、銀座一丁目のところに昼間爆弾が落ちたんです。
丁度、今のテアトル銀座の前に、それでまずびっくりしまして。でも、うちは疎開するところがないし、そのままずっとおりました。それから、あとは3月の空襲です。

3月10日 東京大空襲

下町の方が真っ赤で、うちの方もどんどん燃えてくると思いまして。それで、母親と丸の内に逃げました。「もう家も焼けたわね」と言ってまして。でも、警戒警報解除になったんで「家に帰ってみようか」って言って、帰ったら家があったんで、本当にうれしかったです。

5月24日 銀座空襲

3月10日の空襲があったんで「もう来ないわね」って言って、楽観しておりました。うちの方も軍需工場があるわけじゃないし。
その日、警戒警報が鳴ったんで、寝てからですから10時ぐらいだったんでしょうか。
ただ、家の前が鉄筋の5階のアパートで地下がございましたので、前のビルの地下に入りまして、そしたら、次ぎに空襲警報が鳴って、そのうちもうバラバラバラバラ落ちだしてきたんです。危ないから、父親が焼夷弾が小さいから消せると言って、行って消したらしいです。父親と叔父とで。
すぐ消えるんです。その頃、『火ばたき』っていうんでしょうか。高い竹の先に縄ではたきみたいなものを作っていました。それを水に濡らして、叩くと火が消えるんです。それほど簡単な焼夷弾でした。ですから、うちのところは消したよって言ってたんで「ああ、良かったわ」って言ってたら、角から燃えだして来ちゃって。いよいよダメだということで、2階からどんどん荷物出して、リヤカー持ってきて、それに積んで。いまだにその時の柱時計があります。動きませんけど、大事に取ってあります。それは唯一焼け残った家の証です。
結婚式の時に頂いたものらしくて、本当に100年くらい経ちますよ。
5月24日だったんですけど、寒かったんです。私はオーバー着て、全部持てるだけ持って。それで、京橋の角に空き地がありましたので、そこに、みんなで避難してました。そこにいたんですけど、いよいよ、もっと燃えてきたんで、ここも危ないからって、皇居へ。その頃、皇居のことを『宮城』って言ったんです。そこへ行こうって。そしたら、あの頃、都庁がありましたので、都庁がぼんぼん燃えてました。
もう本当にまるでロウソクです。このくらいでしたかね。家の方に落ちた焼夷弾は。私は、防空ずきんの上から金だらい被って。だから、良く当たらなかったと思いました。それほど、バラバラ落っこって来たんです。
もう本当に、こんな思いは二度としたくないと思いました。怖くて、怖くて、もう本当に忘れません。あの光景は。
都庁の前を通って、皇居に着きましたら、あそこ(皇居西の丸の明治宮殿)が燃えて、「ここが燃えるようじゃしょうがないな」って、父親が言ってました。
京橋小学校まで行きまして、あちらに兵隊さんがいたんです。兵隊さんが玄米のごはんとかを炊いてくれたので、おにぎり貰って。
本当に玄米ってこんな色をしてるのに、おいしいの?って思ったんですが、食べたらすごくおいしくて、もう、なんでこんなおいしいものを知らなかったんだろうって思いました。
朝になって、とにかく家に戻って見ようって、火も落ち着いたんで、荷物持って、家に来たら丸焼けで、3階建てだったんですけど、1メートルくらいの山になってました。これじゃどうしようもない。
もう、つらくて、つらくて、でも、今になってみると物より命だなって思いますけど、その時は、やっぱり、子どもですから、もうお雛様も焼けちゃって、何もかも焼けちゃって、もうこんな辛いことは、戦争なんて、嫌だって思いました。

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