掲載日:2023年1月18日

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「都会の子ども受け入れて」 大野 文雄、佐藤 喜美子(旧姓 大野 文雄さんの妹)

テキスト

文雄さん

村全体で受け入れしてやろうという気運はあったような気がします。子ども心に私もそれは知っておりました。
例えば、炭を焼いている人が、炭を積極的に持ってきてくれたり、あるいは、当時、この辺はお米は取れないところなんですけど、サツマイモとか麦とか、そういうものの物資面では、結構奉仕をして、サービスをしていた。

喜美子さん

そこの駅へ、集団疎開の子どもさんたちが来るっていうんで、全校生徒と婦人会とか、みんなでお迎えに出たことを覚えてます。
やっぱり、都会の子というのはこういうものかなっていうふうに思いました。
今の言葉でいえば、しゃれてて、本当にスマートで。
よく3年生の子なんかは、年中泣いてました。めそめそして。やっぱり、小さい子が来てかわいそうだなってことは思ってました。
かなり、一日の生活の中での決まりはあったようです。何時から何時までは、勉強とか。
お風呂の水を汲むのに、井戸をこうやって、なんとかかんとか文句言うでしょ。それで、私もそこ行ってみてたら、こんなことしなくっても、ジャッって捻ればお水が出るんだっていう話を6年生の子がしてくれて。はあ、そういうものなんかなっていうふうに思いました。
そしたら、マッチ一本つければ、ガスがスッと点くんだよとか。いや、だからびっくりしましたよ。マッチ一本で火が点くなんていうのは。今の若い人は火を点けられないっていうけど、なかなか難しいんですよ。上手になるまでは。だから、それがスッと点くっていうのは、今でもすごい印象に残ってます。
確かに都会の高級な生活からこういうところに来れば、不自由がありますよ。まして親がいないんだから、寂しいっていうか、色々と余計感じるわけでしょうけど。でも、田舎の子は田舎の子で、それが当たり前の生活になっちゃっているわけだから、まるっきり生活習慣が違うわけですよ。

文雄さん

まあ、土曜日曜は家に私も帰って来てましたから、私もそこの部屋にいたもんだから、結構、男の子と一緒に遊ぶことは何回かしたことは覚えています。都会の子どもっていうのは、遊び方をあんまり知らないっていったらおかしいですけど、山の子どもと比べたら、遊び方を知らないですよ。だから、私なんかもよく、代でトッカン作って、新聞紙を噛んで、玉にして、こうやって空気入れるとバーンって音が出るんですよ。あるいは、みんこ(小さい実)が生れば、みんこでやったり。竹で弓を作ってやるとか。自然のもので遊ぶことは、結構、教えたことはありました。ん~喜んだ!喜んだ!この辺でもたまに焼きまんじゅうというか、葬式まんじゅうが葬式あると出すんで、母親が強く言ってましたよ。あげられるんならいいけれどあげられないなら、子どもたちの前で食べちゃいけないと。

喜美子さん

食べ物がなかったとか言うけれど、だけど、私はその時に、都会の子が疎開に来て、特別悪い食事を取ったっていうふうには考えられないんですよ。助役さんがすごく熱心に食料も集めて、何といっても、馬鈴薯(じゃがいも)とかサツマイモとか麦です。陸稲(畑で栽培されるイネ)はいくらか作る家があったかも知れないですけど、吾野のみんなは、その都会から来た人のお世話をしないときにはそれが当たり前でした。
でも、都会の子が来て、まあ、服装なり、食べ物なり、そういうので、結構賄いも気使ってやってたんだと思うんです。なにしろ、100人近い人の食料を調達するっていうのは、大変なことだと思うんです。
最後の頃は『苗床』って、サツマイモを土の中に埋めておくと芽が出ますが、その芽を切って挿し木にするその栄養分がみんな取られちゃったような種芋まで持ってきましたよ。

文雄さん

うちとすれば、できるだけのことはさせていただいたような気がします。私が子ども心にもお勝手からいろんなものを出してやって、私どもの方がこっちで悪いものを食っているようなことも何回かありました。それでも別に、それを妬むということもないし、そういった点では、やっぱり、やってくれたなと思います。

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