掲載日:2023年1月18日

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「子どもたちと共に過ごした集団疎開」 大和 裕子

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北千住に集合して行くわけですよ。上野の駅からの列車でね。
その時に小学校の子どもたちを送るよりも、保護者もいっぱい見送りにきていましたけど、私の小学校の同級生が、みんな私のことを出征兵士を送るみたいな気持ちで、バンザイ!バンザイ!で送ってくれました。
私は、こっちが兵隊に行くみたいだなと思いながら送られました。
子どもは、男の子と女の子が一つの旅館に入って、男の先生と私が担当しました。70人ちょっといましたけれど、割にしっかりした古い家庭の子どもが多かったので、困るような子はいませんでした。だから、みんなちゃんと言うこと聞いてくれて、騒がないで疎開先まで行きました。
私の泊まった宿屋さんは、『泉屋』という古い家でした。
ごはんなんかも多少まざりものがあったかも分かりませんが、まあまあ、なかなか良くやってくださったと思います。
私の行ったところは上野内郡高岡村といって、信越線の『牟礼駅』という谷間の中にある駅からずっと登って行って、向こうに戸隠の山や伊豆の山が見えるところです。そこに山並みがあって隠れちゃって見えないところもありましたが部落(山村の集落)が10部落ありました。その部落の10あるうちの5部落ずつを村長さんがちゃんと分けてくれました。
そして、私の方は、女の子だからということで、女の子25人もたされて、真興寺という曹洞宗のお寺に行きました。
その部落の人が中心になって、村長さんや担当の係の小林さんという方が、この部落は女の子の部落だからといって、曜日を決めてあるから、一週間に一回ずつ大きい子を連れて野菜やお米、それから、米所でしたので、おやつになるからおせんべいをもらってきなさいと言ってくださいました。
ちゃんと通達紙が届いていたようですね。
お風呂は、部落長さんが、部落に三十何軒かあったから割り当ててくれて、子どもの名前を見て、ここに2人ずつ行きなさいと、お風呂にも入らせてくれました。それで、お風呂に行くとお腹空いたろうって、何か食べさせてくれたりもしました。
部落には、専属の大工さんで芽形さんという方がいました。そのおじいさんが、先生、具合の悪いとこがあったら、いつでも言ってくださいと言ってくれました。こちらも若いから、かわいそうだと思ってくれたのでしょうか。
肉体労働もありました。薪をお寺からもらうとか、役場からもらうということは悪くてできませんから、あの唐松の林が戸隠の山の方に向かってずっと生えていていたので、いつも様子を聞いては、唐松の枝が落ちる時に、子どもたちが大きなリヤカーを引っ張って、戸隠の山が見えるところまで薪を取りに行きました。そして、落ちているのを拾ったり、何か借りてきたものでも取りました。
山道は広い道じゃないですから、それをお寺まで降ろしてくるのに坂道ですから、登りは良いけど、私は一番心配しました。自分のことよりも子どもたちが谷に落っこちたらどうしよかしらと。
でも、いつ終戦になるなんて分からなかったから、薪がないと困るので積んで置かないといけない。こんな山の中でお医者さんも牟礼の町までいかないとないですし、長野市みたいにいかないから。だから、子どもの怪我が一番いやでした。
子どもたちも大変でした。朝6時に起きて、本堂でご飯を食べて、それから学校へ集団で坂道を降りていく。学校は高岡村尋常高等小学校でした。私は、はじめのうちは何を教えるのかなって思っていたら、音楽と習字を教えて下さいって言われました。

教え子たちとの交流

今でも手紙のやりとりしたり、私のところにクラス会やるから来てくださいと毎年連絡があります。
高岡村の小学校は廃校になって、下の牟礼の学校と一緒になりましたが、あの高岡村の子どもたちは、東京に出てくるときには東京のホテルに呼んでくれて、向こうだと渋温泉でやるとか、部落の中で順番に世話役やって、今でもちゃんと名簿を送ってくるんですよ。もう向こうも大分歳もとって、70歳過ぎてますけどね。

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