掲載日:2023年1月18日

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「火災が川を越えてやってきた」 中野 耕佑

テキスト

19年の4月に中学に入学したわけです。それで、私は8月頃だったかな。秋頃に埼玉へ疎開した。
いまだに覚えているけど、空襲で焼夷弾が落ちてくるシュルシュルシュルって音。家の中で畳の下に防空壕を掘っていたんですよ。外じゃなくて、もちろん家の中に。空襲警報が鳴ると畳を上げて、その中に。今から考えるとあんなもので足りるわけないですけど。
穴蔵の中に飛び込んだでしょ。そうすると焼夷弾が落ちてくる音というのは、ずいぶん怖い嫌な音だったということは覚えています。
この辺にいたら危ないからということで、この界隈でも強制疎開で、家がどんどん壊される。うちはそうではなかったんですが、壊される家も出てくるということで、疎開することになったんだと思います。

疎開先から

東京の方がずいぶん明るかったのを覚えています。
何しろ東京の方は大変なことだということで、父親も兄も消息がまだ分からないということで、家を見て来いと。10日の朝か、2~3日経った後かな。それで出てきたら上野駅で、もう真っ黒な顔をして、目が真っ赤で、すすけちゃった人を見て、これは大変なことなんだなと思って。
それで、うちの町自体は、今の新大橋通りですけれど、あの通りからずっと向こうは焼けてないんですよ。その前も焼けてないんですよ。こっち側だけなんですよ。家も焼けてないのかなと思って、とことこ歩いてきたら家がなかったというとことなんです。
偶然、家の焼け跡に来ましたら、炭が真っ赤になって、かっか、かっか、しているのを見てびっくりしまして、そしたら、丁度、蛎殻町の交差点のところに、親父と兄がいまして、リヤカーに仏壇と流し鉢かなんか積んで、それだけ出したんだということでした。
小網町には焼夷弾は落ちてないのに、小網町が焼けちゃったのは、火が、風が・・・。風が火を呼んで、火が風を呼ぶんだそうです。そういうことで、向こうから火が川を渡って、こちら側の一区画だけ焼けちゃったんです。
今はもうないんですけど、そこに自動車屋さんがありまして、そこに油があったから、それに火が着いたなんていうけども、それは本当かどうかわかりませんけどね。だから、焼けると思わなかったんじゃないですか。
茅場町の辺りは焼けて大変だけど、川もあるし、こっちに焼夷弾も落ちたわけじゃないから。ところが、火が渡って来ちゃって、焼けちゃったんだと。
明け方前にはB29はもう帰っちゃったわけですから、家が空襲で焼けたのは3月10日の明け方じゃなくて、夜が明けてかららしいですな。そういう意味ではずいぶん悔しかった分けです。

父も兄も疎開

それで、父親も兄も汽車で東京へ通ってたわけです。
炭屋です。炭の統制経済で、炭の配給所、炭もお米も酒屋さんもみんな配給所というのは、業者が何軒か一緒になってやってたわけです。
焼けなかった炭屋さんを配給所にして、業者が何人か集まって。
だから、そういう意味では、空襲で焼けた人と焼けなかった人では、ずいぶん、戦後の立ち上がりに差がついたらしいです。
焼けた人は、自分で家も建てないといけないし、自分で商売、配給所で5人なら5人で一緒にやって、給料ということになっても、やっぱり、そこで商売やっている人の方が、統制経済が外れた後もお客さんを把握できたんじゃないですか。だから、焼けた人の方が出遅れたということは、確かみたいです。

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