其角(きかく)居住跡

掲載日:2023年8月21日

ページID:14593

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其角居住跡の刻銘碑の画像

種別

都指定文化財 旧跡

所在地

日本橋茅場町一丁目6番

広報紙コラム「区内の文化財」より(令和5年8月21日号)

五・七・五の十七音で表現する日本の定型詩といえば「俳句」が思い浮かびます。日本では、古くから繊細な季節の移ろいや物事の変化などを細やかに感じ取り、短く研ぎ澄ました奥行きのある言葉(音数)・リズムで表現し、味わうことが行われてきました。豊かな自然風土を持ち、四季折々の変化に富む日本ならではの文化の一つといえます。残暑真っただ中の今、季語(特定の季節を表す言葉)を入れながら、日常的な気づきや感動、あるいは思い浮かんだ物事などを俳句にしてみる方も多いのではないでしょうか。

今でも身近に詠まれる俳句ですが、もとをたどると正統な「連歌(複数人が上の句〈五・七・五〉と下の句〈七・七〉を交互に詠み連ねる)」から「俳諧(はいかい)連歌(当意即妙の機知滑稽(こっけい)に興ずる要素を中心に詠む)」が生まれ、さらには江戸時代初期に松尾芭蕉(ばしょう)によって発句(ほっく)(最初の句〈五・七・五〉)の芸術性・独立性を高めた「俳諧」(発句のみを詠んで鑑賞)が流行しました。そして、明治期に正岡子規(まさおかしき)などが中心となって俳諧の発句を独立させた文芸を「俳句」と呼ぶようになりました。
さて、現在の日本橋茅場町一丁目6番街区の角地には、旧日本勧業銀行の頭取(横田郁)筆による石碑(正面に「其角住居跡」の陰刻)が立っています。この石碑は、当該地付近に江戸時代中期の俳人・榎本(えのもと)(後に母方の姓「宝井」を称する)其角(1661~1707)が居を定めたことを記念して、昭和45年(1970)11月に建てたものです。なお、当該地付近は歴史的価値を有する遺跡として東京都指定旧跡(文化財名称は「其角居住跡」)に位置づけら
れています。
後に俳仙(はいせん)として名を馳せる其角は、近江国膳所(おうみのくにぜぜ)藩本多家の江戸詰医師(竹下東順)の子として、寛文元年(1661)に堀江町一丁目(現在の日本橋小舟町)で生まれました。幼くして儒学「服部寛斎(かんさい)」を学び、医学「草刈三越(さんえつ)」や詩経・易経(臨済宗円覚寺〈鎌倉〉の「大顛和尚(だいてんおしょう)」、書「佐々木玄龍(げんりゅう)」や画「英一蝶(はなぶさいっちょう)」に至るまで多くを学んでいます。なお、俳諧は延宝(1673~1681)の初めに松尾芭蕉の門に入って学び、その実力は蕉門十哲(しょうもんじってつ)(特に優れた芭蕉の高弟10人を指す言葉)の筆頭に数えられるほどで、後に一風を起こすまでの存在となりました。
江戸時代後期の地誌『江戸名所図会(ずえ)』には、其角の居住地に関して「俳仙宝晋齋其角翁宿(はいせんほうしんさいきかくおうのやど) 茅場町薬師堂の辺也(あたりなり)といひ伝(つた)ふ元禄の末(すえ)ころに住(じゅう)す即(すなわ)ち終焉(しゅうえん)の地なり」という記述とともに、近隣にあった儒学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666~1728)の居宅を詠んだ句「梅が香(か)や隣(となり)は荻生惣右衛門(おぎゅうそうえもん)」「里(り)俗(ぞく)の口(こう)碑(ひ)」も記されています。また、弟子が編さんした其角の遺稿『類柑子(るいこうじ)』「北の窓」にも、「我栖北隣(われすむきたとなり)に芦荻茂(あしおぎしげ)く生(おい)て笹阿(ささのくま)なる地あり茅場町といふ名にふれて昔は海辺なりしを今は栄行(さかえゆく)家作(いえつくり)して山王権現の御旅所と定め薬師佛立給(やくしぶつたちたま)ふに堂のかみ斗(ばかり)ただほのかに繪(え)にかけると見ゆ空地(くうち)は水をためて池めかし(後略)」とあり、居住地の北側に山王御旅所や薬師堂、そして裏手に大きな池(「禿池(かむろがいけ)」旧地とも)と思しき地がある様子もうかがえます。なお、『江戸名所図会』「六月十五日 山王祭」の挿絵に其角の句「我等(われら)まで天下まつりや土車(つちぐるま)」、「茅場町薬師堂」の挿絵にも「夕(ゆう)やくしすずしき風の誓(ちかい)かな」が添えられています。

豪放闊達(ごうほうかったつ)で豊かな感受性を示す其角の俳諧は、作意の働きを主とした奇抜な見立てがあり、しゃれた趣向の中に知的な面白さを持っています。

中央区教育委員会
学芸員 増山一成

お問い合わせ先

教育委員会事務局図書文化財課郷土資料館

〒104-0041 新富一丁目13番14号

電話:03-3551-2167

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