銅鐘石町時の鐘

掲載日:2024年3月21日

ページID:15544

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種別

都指定文化財 工芸品

所在地

日本橋小伝馬町5 十思公園内

広報紙コラム「区内の文化財」より(令和6年3月21日号)

時を計るための装置「時計」は、時刻の指示や時間の測定機能を持つとともに、日常生活のリズムを刻むツールとして利用されています。日本では古くから朝廷などで測時器機から得られた時刻を鐘や鼓を打って告知する方法(定時法)を採用していたようです。ただし、一般社会では日の出と日の入りに基準を置く自然発生的な時間区分の不定時法が主流でした(明治6年〈1873〉に改暦〈太陰太陽暦から太陽暦へ〉と時刻制度変更〈不定時法から現行の24時間制の定時法へ〉)。日の光を受けて生活を営んできた人間の行動に基づけば、昼夜で区分を変える時刻制度(不定時法)は、太陽の位置と時刻が一致して季節による差がなく(ただし、季節ごとに一刻〈時間〉の長短あり)、理に適っていました。

不定時法では、昼と夜(日の出と日の入り)を境として、この間をそれぞれ6等分し、その一区切りを一刻(いっこく)・一時(いっとき)・一(ひと)つなどと称しました。また、昼夜で合計12等分した時刻は、十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)(ねうしとらうたつみうまひつじさるとりいぬい)に当てはめる言い方(「卯刻(うのこく)」「酉刻(とりのこく)」など)や一刻を2つに割った「半刻(はんこく)」という表現もあり、数字を用いた呼称(「明け六つ(あけむつ)」「暮れ六つ(くれむつ)」など)もあって多様でした。

ところで、江戸時代の時刻の報知方法ですが、江戸城内では「土圭之間(とけいのま)」に置かれた和時計で殿中の時刻を管理し、太鼓(当初は鐘)を打って時を報知(登城の時刻など)する方法がとられていました。一方、江戸の府内には、2代将軍・徳川秀忠の時代に本石町三丁目(現在の日本橋本町四丁目・日本橋室町四丁目)へ時の鐘を創設し、十二時(じゅうにとき)の一時(いっとき)ごと(約2時間おきに一昼夜)に鐘を撞いて江戸の人びとに時を知らせたといわれています。なお、明暦の大火(1657年)以降、江戸市街地拡大に伴って府内各所に時の鐘が増設されており、町奉行管轄のものは本石町と本所横堀の2カ所、寺社奉行管轄のものは後の移設も含めて13カ所(上野寛永寺・市ヶ谷八幡〈東円寺〉・芝切通し〈増上寺〉・赤坂円通寺・赤坂成満寺・目白不動尊・浅草寺・四谷天龍寺・下大崎村寿昌寺・目黒祐天寺・目白新福寺・巣鴨子育稲荷・西久保八幡)に及びました。

江戸府内へ最初に設置された本石町三丁目の時の鐘(通称「石町時の鐘」)は、享保10年(1725)に時鐘役(ときのかねやく)(「鐘撞役(かねつきやく)」「請負人」とも)・辻源七(つじげんしち)(名跡(みょうせき)相続の世襲制)が書上あげた記録によると、これまでに3回の改鋳(正保2年〈1645〉・承応元年〈1652〉・文昭院(ぶんしょういん)〈6代将軍家宣〉の御代(みよ)があった旨が記されています。なお、現在の十思公園に保存されている石町時の鐘(高さ約1.7m・口径約93cm)の鐘銘には、「寶永辛卯(ほうえいかのとう)四月中浣鋳物(しがつちゅうかんいもの)御大工椎名伊豫(いよ)藤原重休」とあるため、記録にある家宣治世下の宝永辛卯(1711年)改鋳の鐘であると思われます。ちなみに石町の場合は、鐘の聞こえる410町(設置された鐘ごとに定められた範囲あり)とかなり広い範囲から鐘撞銭(家持町人1軒につき1カ月銭4文)を徴収し、時の鐘の管理・運営費を賄っていたようです。

時の鐘は「石町は江戸を寝せたり起こしたり」などと川柳に詠まれるほど、江戸の時刻報知手段として欠かせない存在でしたが、明治初年の神仏分離令・太陰暦導入・時刻制度変更・午砲(ごほう)(空砲で正午を告げる)設置などの影響を受けて廃止となりました。

その後、本石町三丁目の油問屋・松澤家(大坂屋孫八)の手に渡った石町時の鐘は、関東大震災後に東京都へ移管されることになり、整備された復興小公園「十思公園」に建造したモダンな鉄筋コンクリート造の鐘楼堂内へと移設して現在に至っています。

300年以上の歴史を経てきた石町時の鐘は、今日では吐故納新(とこのうしん)の思いをのせて撞かれる除夜の鐘として活用されており、町中に染み入るような黄鐘調(おうしきちょう)の音色を響かせています。

中央区教育委員会 学芸員 増山一成

お問い合わせ先

教育委員会事務局図書文化財課郷土資料館

〒104-0041 新富一丁目13番14号

電話:03-3551-2167

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