掲載日:2023年1月18日

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「中学1年生の空襲体験」 小田 保中

テキスト

毎日、飛んできて、東京の空を覗いて帰るわけでしょ。ほとんど1機です。そういう時には、隠れたってはじまらないので、私どものビルの屋上で近所の人も含めてB29が飛んでくるのを見ている。銀色の綺麗な飛行機でね。警戒警報が鳴って、時間をおいて空襲警報が鳴るというのが本来の順番なんだけど、まず最初に敵機が来ちゃうんですよ。それから空襲警報が鳴るというような感じで、まったく信頼できないね、あの警報は。むしろラジオの方が良かったと思いますよ。ラジオはみんな入れっぱなしにしてたから。

1月27日 有楽町や銀座を狙った空襲に遭遇

僕は当時、中学校が銀座の木挽町、今の東銀座にあって、その帰りで京橋の交差点を越えたところで空襲なんで。電車走らない。京橋の交差点から日本橋に向かって、左側に千代田生命というビルがありまして、これはここ1、2年前に壊されて今日の時点で更地になってますけど、そこのビルに逃げ込みました。空襲警報解除のサイレンが鳴ったから出たわけですけど、もう人がほとんどいない。人は歩いてない。自動車も走ってない。だいたい米軍の空襲というのは焼夷弾ですけども、1月は爆弾の攻撃で。突然の空襲で銀座4丁目の角の三愛寄りのほとんど中心部に落ちて、線路まで突き抜けた。死者があちこち。私は京橋にいて、銀座まで見には行きませんでしたから、それは話で聞いて、翌日、行って、すげーなこれはって。というような体験をしました。

3月10日 東京大空襲

これは夜だから寝てますよ。寝てるけどね、もう、しょっちゅう空襲があるから、男の子はみんなゲートル巻いてますね。ラジオ入れっぱなしで、ラジオが何言うか、聞いてますから、空襲が来るなってのはわかりますね。一番最初にやられたのは、本所、深川ですから。東の空がもうどんどん赤くなってきた。どんどんこっち隅田川越えて、こっち側の浜町とか、そういう日本橋界隈がやられはじめましたから。まあ、うちのおばあさんはやっぱり祖父と一緒に作った建物で鉄筋コンクリートは何に対しても大丈夫だ。従って、逃げる必要もない。疎開もしない。ここで大丈夫だという信念の人でしたから。ただ、上から落ちた爆弾・焼夷弾は屋上に落ちてたから、確かに大丈夫だけど、類焼してきます。窓を破って。火があれだけ強くなると、もうガラスも膨張して割れますから、結局、類焼してきます。おばあちゃんはまだしっかり者だったから一緒で、ひいおばあちゃんはちょっと骨折って怪我してましたからリアカーに乗せて。おかしなもので学校の教科書から、辞書ですね、それから布団ですね。やっぱり慌ててますから何を持って行っていいか考える思考力がないんですよね。だから目先にあるもので大事なもの、明日、学校に持っていく物とか、そういった物が気になるくらいで。それで、2月に焼けた神田の方へ逃げた。家の通りの反対側はもう神田ですから。そっちが空地になってたわけね。四方八方、全部火の海でしょ。神田の焼け跡だけは平穏そのものだから、燃えるものは、2週間前に全部燃えてるわけだから。脅かされて逃げる魚みたいなもので、みんな網に入っちゃうとのと同じで、逃げ道が一つしかなければ、自然にそこへ行くようになりますよ。考えるも考えないもない。近所の方もみんなそっちへ同じように逃げましたから。風が異常に吹きましたね。あの神田の方から火の元へ向かって、こういうふうにまわってくるから火の粉で燃えちゃいます。持ってた布団は結構焦げましたよね。火がおさまったのは4時、5時ぐらいでしょ。というのはそのぐらいから、ぞろぞろ、ぞろぞろ人が歩いてきた。着ている物に火がついて、それを消してるということで、目が真っ赤になって、うつろな顔して、子どもの手を引っ張って歩いてるお母さんもいれば、というような感じで非常に悲惨な感じでしたね。自宅が焼けてショックでしたね。僕はこれは焼けるよって言ってたんだから、おばあさんが非常にショックだった。それで、焼けて、ほとんど木製だから何もないんですけど、焼け跡から探して仏像が出てきて、それはおばあちゃんが大事に拾ってきて、今、私のところにあります。

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