一等水準点標石(交無号)(いっとうすいじゅんてんひょうせき(こうむごう))

掲載日:2023年7月19日

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一等水準点標石(交無号)の画像
一等水準点標石(交無号)

種別

区民有形文化財 歴史資料

所在地

新川二丁目32番先

員数

1基

年代

昭和5年

登録年月日

令和4年4月1日

登録基準

〔5〕

  • イ、歴史上の事象に関する遺品で、学術的価値のあるもの
  • ハ、区の歴史上重要と認められるもの

広報紙コラム「区内の文化財」より(令和4年4月21日号掲載)

中央区新川地区は、北から北東に日本橋川、北西から西に亀島川、東と南は隅田川に面しているため、地図上では独立した島のようにもみえます。土地の履歴をひもとくと、約400年前の寛永元年(1624)に当該地区が埋め立て造成され、霊巌雄誉上人(れいがんゆうよしょうにん)の開山によって浄土宗寺院・道本山東海院(どうほんざんとうかいいん)霊巌寺が創建された歴史があります。島の名は寺名にちなんで霊岸島と呼ばれ、門前には町人地(霊岸島町)が形成されました。明暦3年(1657)の大火後は、霊巌寺が深川(現在の江東区白河一丁目)へと移転し、跡地には複数の町が起立しました。
霊岸島には幕末に至るまで町人地や武家地(越前国(えちぜんのくに)福井藩松平家・御船手組(おふなてぐみ)屋敷など)があり、江戸湊を見渡せる島の南端(亀島川と大川の合流点に面した場所)には、出入りする船を見張る関所ともいうべき船見番所が設置されていました。
江戸時代を通して諸国の廻船が行き交う要所にあった霊岸島の船見番所ですが、時代が明治に移ると荒川水系の水位データの収集を実施する要所として検潮所(潮位観測所)と量水標が設置されました。歴史的に見ても、当地には波浪の影響を受けにくい地点があったようで、平均潮位(満潮位と干潮位の平均値)の算出が可能な環境や地理的な条件が整っていたと思われます。
明治初期には、荒川水系の水位を継続的に観測(明治6年〈1873〉6月~明治12年〈1879〉12月)し、平均潮位(満潮位と干潮位の平均値)を算出するための施設が設けられました。当地で観測された平均潮位の水準面(1.1344メートル)を基に東京湾の平均海面(T.P.0メートル)が定められ、さらにこの数値(水準点位置)を起点に標高決定の基準である「日本水準原点」(国会議事堂前庭〈千代田区永田町一丁目〉にある標庫の地下約10メートルの位置に目盛板がある)が測量決定されました。
かつて霊岸島に設置されていた検潮所・量水標跡(隅田川テラスに立てられたポールの位置が旧検潮所の跡地)については、区民史跡として紹介(平成26年12月21日号)しましたが、中央大橋のたもとには、関連する歴史資料として東京湾平均海面の値(T.P.0メートルの水準点)を示すために埋設した標石(一等水準点標石)が保存されています。
明治期の水準測量の基準となった最初の標石は、明治17年(1884)に内務省地理局によって霊岸島量水標近くの陸地に設置されました。明治24年(1891)には、0メートルの水準点位置を示す堅固な石柱(水準標石)を製造して新しく埋設し、さらに関東大震災後の昭和5年(1930)にも新たに標石が製造・埋設されました。なお、現存する昭和5年の標石は、平成18年(2006)に旧位置から約70メートル東へと移設したものです。
水準路線の交差と0号を組み合わせた「交無号」を正式名称とするこの標石は、小豆島産の花崗岩で製造されており、形状は幅・奥行ともに約25センチメートル(面取り加工)、地上高約19センチメートル(埋没部を含む推定全高は約105センチメートル)あります。また、標石の頂部には半球状の突起(球分体(きゅうぶんたい))が加工されており、背面には「水準点」(「点」の文字は埋没)の陰刻が施されています。なお、標石の周囲にはコンクリートに固定された約30センチメートルの保護石が4個配置されています。現在も一等水準交差点として機能しているこの文化財は、測量技術の事象に関する重要な歴史資料です。
中央区教育委員会 学芸員
増山一成

お問い合わせ先

教育委員会事務局図書文化財課郷土資料館

〒104-0041 新富一丁目13番14号

電話:03-3551-2167

ファクス:03-3551-2712

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