掲載日:2023年1月18日

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「うすれかけた記憶から」 平石 勝(ひらいし かつ)

私は昭和17年7月中旬に召集されて、赤羽の工兵隊に入隊し、そこから戦地へ行きました。そして、昭和20年12月31日に、栄養失調のために身体中がむくみ、地下足袋もはけない状態でパラオから復員し、郷里の千葉へ帰ったのです。

昭和21年に再び東京に出てきましたが、その頃、鉄砲洲あたりは戦時中の強制疎開の跡も生々しく、まだ畑が残っていました。
応召されるまで、私は当時日本橋茅場町にあった自動車整備会社で働いておりました。仕事はたくさんありましたが、給料は安く、月15円から20円くらいだったと記憶しています。しかし、1円あれば地下鉄で浅草へ行き、映画を観て、飯も食えて、帰ってこられるという時代でした。バットが7銭、「アタピン」と呼んでいた酒が1合13銭、高級な菊正は60銭で、隣のミルクホールのコーヒーは5銭でした。
現在の新大橋通りのあたりには飲食の屋台が並び、縁日のような賑わいでした。焼鳥、もつ焼、もつ煮込み、すし、中華そば、おでん、フライ、トンカツ、など・・・・・。キングの新年号の厚さを売り物にした厚切りトンカツの店もありました。食べ物はなんでもあったように思います。
昭和16年の暮れに、貯金をはたいて神田でラグランのオーバーを買いました。200円近い高級品で、私にとってこれが唯一の財産でした。
作業用のつなぎ服にスフのはいったものがありましたが、衣料はまだ切符制になっていなかったように思います。
召集令状を受け、送別会を目黒の料理屋で行いましたが、その時、鯨の肉が出たように記憶しています。
その頃には食用油も不自由になってきており、得意先の油屋から内緒でわけでもらった油を叔父宅にあげて喜ばれたこともありました。

油といえば、車も代燃車(木炭・薪・コークス等を燃料として使用したもの)が増えていました。
退職する時、社長(陸軍准尉で応召、昭和17年に帰還)が、将校用の純毛の生地で国民服を作ってくれましたが、私自身は着る機会もないので田舎の親父にプレゼントしましたら、スフ混紡の時代に国民服とはいえ純毛を着ていると後ろめたく感じたと、戦後話してくれました。
隣組単位の防空防火訓練は、警防団の指導で行われました。発煙筒を焚いて、防火用水に火はたきを浸して叩き消す訓練をするのですが、1世帯1人は必ず参加しなければなりませんでした。
その頃、3-6ブロックに20代の青年は10人もいませんでした。私たちの召集が遅かったのは、私の会社は社長が出征中で留守家族という扱いだったためであろうと言われていました。しかし、いつ召集されてもいいように、私は軍事教練には進んで参加しました。坂本公園から代々木公園まで駆け足行軍をしたことが、特に記憶に残っています。
その頃、人形町の末広亭へ行くと、演芸の途中にしばしばアナウンスが入り、「~さん、いらっしやいますか。おめでとうございます。只今召集令状が参りました」という呼び出しがあったりしました。すると、場内は「バンザイ」と拍手の嵐というわけです。そうしたアナウンスの中には、わざと利用した人もあったように聞いていましたが・・・・・・。
戦地での体験は話すまでもありません。毎日を平和に暮せる今は、死んだ戦友に申し訳ない思いばかりです。戦争は絶対あってはいけません。

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