掲載日:2023年1月18日
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「シラミ取りの時間」 丸山 毅(まるやま たけし)
私は、昭和19年4月に佃島国民学校から月島第一国民学校へ移りました。5年生の時で、何人かの児童が一緒だったと思います。
学童集団疎開へ行ったのは同年7月で、長瀞の大正亭という旅館でしたが、昭和20年3月には秩父の公民道場に移りました。月島第一国民学校の児童は15~16名ではなかったかと思いますが、日本橋区と京橋区の10校くらいから児童が集まっていて、全部で100名くらいいたのではないかと記憶しています。
授業は2学年ずつの複式で、教育勅語とか歴代の天皇の名前をただ暗記させられるだけで、体育、音楽、図工等はありませんでした。先生は、男性3人、女性2~3人でしたが、月島第一国民学校の先生はその中に含まれていませんでした。
朝晩は、皇居に向かって遥拝し、文句は忘れましたが何か挨拶していました。軍国少年として教育されたわけですから、私は国民学校を終わったら陸軍幼年学校へ進もうと思っていましたし、大部分の友達もそう思っていました。
辛かったことと言えば、上級生や他校の上級生にいじめられたこと、いつも空腹だったことです。
いじめや暴力はありませんでしたが、私は身体が小さかったので「チビ」とからかわれました。何しろ、学年による序列は、当時、絶対でした。私自身も6年生になってからは番長みたいになりました。
弟が4年生で一緒に疎開していたのですが、その友達から親の持ってきてくれたかりんとうをもらったことがあります。「くれ」と言った覚えは全くないのですが、何しろ珍しくて夢中で食べました。
ところが、何年か経ってから弟から聞いたのですが、友達は私が脅かして取ったと言っていたそうです。その時、部屋に私だけしかいなかったので、彼は1人で食べるわけにはいかず、上級生の無言の圧力を感じて脅かされたと思ったのかもしれません。いわゆるカツ上げ等も行われていたようです。私の体験ではありませんが、下級生がほんの1口ずつ食事を残して1人の上級生にあげる、といった事もありました。お腹が空いて、じゃが芋を生でかじったという話もあります。
また、親が面会に来ると、先生に何かあげるらしく、「先生の部屋には干し柿があった。先生がカツ上げした」というような噂さえ流れました。空腹の児童たちから見ると、それは先生が親からカツ上げしたように思われたのでしょう。児童たちの心までゆがめられてしまった時代でした。
もう1つ困ったのは、ノミとシラミです。1週間着っぱなし、ひどい子は1か月着たままという状況ですから。シラミ取りの時間があって、みんなで一斉に脱いで、下着の縫い目についたのを取るのですが、1時間くらいやっていました。
しかし、あまり病気をした人はいなかったように思います。
ともかく自分のことで精一杯でよく憶えていません。先生も、東京では体罰は当時日常茶飯事でしたが、疎開先では控えていたのか、児童を叩くところを見たことはありませんでした。
1度脱走した子がいましたが、簡単に汽車に乗れない時代ですから、線路で捕まってしまいました。脱走は大変勇気のいることです。何しろ、脱走は軍人で言えば捕虜になるのと同じで不名誉なことで、親にまで迷惑がかかると思っていましたから、帰りたくてもできませんでした。
疎開に出発する時も、出征兵士のように前の家の人が餞別をくれたので、一人前になった気がして嬉しかったのを憶えています。
当時の児童は、先生から二言目には「男だろう」と指導され、まわりからの圧力を感じているので、子供ながらも建前で生きざるを得なかったのです。しっかりしていたのも、そういう風潮や外からの圧力のせいだと思います。
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