掲載日:2023年1月18日

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「材料と人手不足で鯛焼き屋を休業」 竹内 保夫(たけうち やすお)

私は昭和20年当時20歳で、軍隊に入っていました。軍隊では松本にいて、それから金沢へ移ったのですが、松本も金沢も1度も空襲を受けていないんです。

戦時下のあのような状況の中では、家族と一緒にいますと、離ればなれになっちゃいけないとか、どうやってみんなで逃げようとか、いろいろ心配があったでしょうが、私は軍隊に入っていましたから、ある意味では身軽で、特に苦労したという記憶は残ってないですね。

空襲が激しくなってきた頃、おふくろや弟は信州の方へ疎開していましたが、親父は人形町に残っていました。

その頃になりますと、この周囲は空き家ばかりになっていましたから、焼夷弾なんかが落ちた時、消す人がいないと困るということで親父は防火団に入っていたんです。当時、女性や子供は疎開に出ていましたから、軍隊にとられない壮年の男性は、町や家屋を守るために残っていました。そんなことでここらへんは延焼から免れたとも言えるわけです。

松島神社が焼けた時は、ここらあたりもきわどいところだったようです。なにしろ、通り一つ向こうがまる焼けだったんですから。

あれだけの激しい空襲が続いたにもかかわらず、この一角だけ戦災から免れたのは、運もよかったのでしょうが、当時この町会の人たちは、火が延焼しないように本当にずいぶん頑張って消火につとめたと聞いています。

人形町には市電の変電所があって、その変電所を守るために周囲の家屋が強制疎開にあったんです。それでたくさんの建物が取り壊されました。

変電所のすぐ隣に住んでいた関井さんというお宅は、その時の建物の強制疎開で家を壊され、現在のご当主は軍隊にとられて満州に行っていましたが、残されたご家族は通り1つ隔てた空き家に住んでいました。

私の家は大正5年からここで鯛焼き屋をやっていましたが、昭和16年頃から材料の砂糖が配給になってしまい、通常の営業に戻ったのは昭和27年からです。

配給物資で営業をすると、2時間くらいで終わってしまうんです。それから、やはり昭和16年頃からは、若い人がどんどん兵隊にとられてしまって、鯛焼きを焼く職人がいなくなってしまった。さらにガスが使えなくなってしまい、とうとう鯛焼きができなくなったので、親父とおふくろは細々と甘味喫茶のようなものをやっていました。ところが戦争の後半になると、その配給すらなくなってしまったんです。

私は内地勤務でしたから復員は早かったんです。昭和20年の9月11日には金沢から家族の疎開先である信州に行って、そこで1か月くらい休養して東京へ戻りました。東京には親父が残って頑張っていました。ところが先程言ったように、材料がなくて鯛焼き屋はできないものですから、私は復員後、別の所に勤めることにしたのです。

ちょうど親戚に代議士をしていた人がおりまして、その国会議員の秘書となったわけです。

戦後第1回国会で、当時はアメリカの議会に見倣って秘書の制度を置くということで、「事務補助員」というのが私の職名でした。昭和22年4月当時、代議士の歳費が月額で3,500円、私が事務補助員としてもらった給金が1,150円、ちょうど代議士の3分の1でした。ところがその代議士が次の選挙で落選してしまって、私の秘書時代は実に短い間のことだったわけです。

やがて、戦後の動乱を経て日本も徐々に復興し、私どもも従来の鯛焼き屋ができるようになっていったわけですが、戦時中、この町で苦労した世代の人たちの多くが亡くなってしまい、当時を知る人もわずかになってしまいました。

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