掲載日:2023年1月18日

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「弟と二人で逃げた東京大空襲」 外田 光江

テキスト

母親に起こされて、深川の方を見たら真っ赤な空でした。もう身がすくんじゃうというか。私の姉がそっちにいるから、どうなっているのかしら?焼け死ななければいいがという気持ちでした。だけど、こっちも小田原町一丁目、二丁目に焼夷弾が落ちてきているから逃げなさいと母親に言われて、親は家に火がついちゃったら大変だから家に残って見てるから逃げなさいと。それで、弟の手を引っ張って、弟に防空ずきんを被して、私は座布団をかぶって、弟は4つ下でしたけど、手を握ったまま離れたら大変だという思いでした。
近所の私たち同年代の人がどんどん河岸の中へ逃げていくから、一緒になって今でいう場内に逃げ込んだんです。すると、今度は市場の中に焼夷弾がどんどん、バラバラバラバラと落ちてくるんです。とにかく火の粉が降ってくるのを振り払う感じで、避けなきゃいけないような。みんな行き惑っちゃって、どこに逃げようかと。本当にあの時は気持ちが動転してますものね。また上から落ちてきて、ここは危ない。郵便局には地下があるから、そこなら間違いない。「地下だ。地下だ。」って言われて、築地郵便局の地下に逃げ込みました。もういっぱいでした。もう凍えちゃって、焼夷弾、敵機が離れるのを待つという感じでした。
しばらくすると、朝が来て、大人の方がこれで遠ざかったから、家に帰っても大丈夫だぞ。一丁目の界隈は残っているようだから安心して帰っても大丈夫だと言われて、弟の手を引いて、まだ燃えているところもありしましたけど、家の方に帰る人たちとみんなで一緒に帰ってきたら、家が残っていたので「ああ、良かった。お母さーん」と、お母さんの胸に飛び込みました。

父は家財道具を守るため、聖路加病院近くに避難

あそこが川でしたから、その際に車を置いて自分はそこで見張りをしていた。敵機も向こうに行っちゃって、焼夷弾もこれでやっと収まったようだからと、大分遅くなって荷物持って帰ってきました。もうホッとして、よく助かったわねって感じでした。

4月から女学校へ

学校に行き始めたのが4月でしたから、そこから一月ぐらいでした。
とにかく、女学校に行くようになって、私が勝どき橋を渡って、月島から深川の方の高校に行ってましたので、勝どき橋から見下ろすと、水死体がどんどんどんどん流れて、親子で、女の人は上向きで、子どもの顔も隣におんぶひもで並んで、水死体が行く。男の人はうつ伏せで、何体見たかわからない。気の毒でかわいそうで、何でこんなに犠牲者が出ちゃったの。戦争さえなければっていう気持ちでした。こんな赤ちゃんまで痛めつけてって、本当に悲惨です。

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