掲載日:2023年1月18日

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「久松町で遭遇した東京大空襲」 亀田 和子

テキスト

その夜も警戒警報は鳴ったと思いますが、私は寝てました。母が「空襲ですよ。起きなさい」と言うので、ちょっといつもとは違うなと思って起きて、表が賑やかで人の声や音がしてましたから、それで雨戸をそっと10センチメートルほど開けて見ると、空に飛行機が飛んでいて、サーチライトが方々から飛行機に向かってものすごいんです。そして、ヒューって、あの焼夷弾がパラパラと音をたてて落ちてきたんです。それでびっくりしまして、急いで上着を着て学校のカバンを一つだけ持って、後は何にも持たず、掛け布団を頭からかぶりなさいというので、防空ずきんの上から布団をかぶって、みんなで表に出ました。
警察の前の広い通りは電車が通ってましたので、その電車道へ参りました。歩道いっぱいの人でした。そこへ布団をかぶったまま、みんなで出て行ったんですけど、火の粉が飛んできて、防空ずきんに燃え移るから、それを私は何も考えないで、後ろからただ払うだけでした。でも、みなさんが右往左往してらっしゃるので、とても布団をかぶってはいられないと布団を捨てました。
馬喰町の方に空き地があるからそこへ行けばいいとか、明治座へ行った方がいいとか、みなさんが口々にいろいろおっしゃるんです。明治座が近いから、明治座へ行こうかと言ったら、誰かが明治座もいっぱいだよとか言うので、父が「さあ、行こう」と人形町の方に向かって言ったので、「さあ、行きましょう」と姉と母で言って、一歩踏み出したら人混みで父が見えなくなったんです。それで、仕方ないから、お父さんが「あっちへ行こう」と言ったから、「とにかく行きましょう」と、消防署の前から警察のところへ向かって歩きました。
本当は川を渡って人形町の方に行くつもりでしたが、川向こうが火の海に見えましたから、もう行かれない。とにかく警察のところに3人でおりました。
母が関東大震災でここだけは残ったから、この建物は大丈夫だから様子を見ようということでおりました。時間はそんなに経ってないと思いましたけど、たまたま警察の留置場の入口から警察の方が出てきて、中へ入りなさいって言ってくださって、その場に30人ほどいた方は、一緒にみなさん入らせていただいたと思いますけど、入ると中はガラガラでした。
父が人形町に行かれなかったとみて、裏の方の入口から入ったらしく、私たちを探しに来てくれまして、そこで会えた時は本当にうれしかったです。もう抱き合いました。
そのうち、久松小学校に火が入ったぞと、小学校の方から何人か裏からいらしたように思いました。ちょっと時間が経っていたと思いますけど、警察にも火が入ったぞといって、刑事さんかバケツ持って右往左往していたのを見て、あっ!これは!と思いましたけどおかげさまで、そこにいることができました。
電車道の向こう側の浜町のお家がどんどん燃えているのが窓から見まして、警察の電車道、こっち側の警察の窓ガラスがピー、ピーっていってヒビが入って割れていくのが怖かったです。それこそ、もう抱き合っていたかも知れません。もうどうなるか分かりませんから。

翌朝

朝いっぺん、落ち着いてから、もう一度家を見に参りました。それこそ焼け野原でどこがどこだか分からない。自分の家を探すのも分からないくらい全部焼けて、家はどこかしら?というほど何にもないですから。台所の下がコンクリーで区切ってあって、ここが家だって分かったくらい、全部きれいに焼けてました。
つらいですね。もう本当に戦争は怖かったです。

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