掲載日:2023年1月18日

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「有楽町で爆撃されて」 伊藤 正治

テキスト

大学に入って18年です。その頃はまだ僕は運動をやっていました。運動も陸上部員をずっとやってました。
19年になってから、運動部が中止になって、それから動員がはじまったんです。
僕なんか、19年から亀戸の工場に行ったり、それは短期間でしたけど。通年動員で、2~3週間行ったり、そういうのを何回かやらされました。その後で、三菱造船の長いのに動員されたわけです。あれは19年の終わりからですかね。
授業もないです。だって、先生も一緒に工場に来ていましたから。
たまたま、その日は電休日といって電気のお休み。電気の送電を止めるんです。たまに工場もお休みするんです。フル稼働じゃなくて、たまに休むんです。その電休日でした。
ですから、我々は解放されまして、友だちと銀座で会ってたんです。そしたら、空襲警報が鳴ったんで、有楽町に逃げたわけです。それで壕に入っていた。丁度、壕は道路の脇ですから。もぐりこんでじっとしていて、そしたら「空襲警戒警報解除!」って、大きなアナウンスあったんで、ぞろぞろと出たら、偶然に僕の中学時代の同級生に会ったんです。
「あ、お前か」ってことで、日劇の方を見ながら立ち話をしていたその時なんですよ。パカッと。僕の感じでは、ピカッと光ったのは覚えているんです。ピカッと光った瞬間に、すごい力で胸をバーンと押されたような記憶がありました。僕の頭の中で、仁王様にバーンと押されたような記憶があるんですけど、それ以降はしばらく記憶が途絶しました。
その間気絶して、それで「うーん」って息を吹き返したら血なまぐさいすごい煙硝と血の臭いとものすごい臭いがプーンと鼻に入ってきたんです。それで、起き上がろうとしたら、お腹の上がやけに重いと思ったら、人が一人倒れて乗っかっていました。それはどうにか払いのけたんですけど、その時回りを見たら、今でも覚えているんですけど、頭から血を流しながら、ざんばら髪の女性が「うーん」とうめきながら立ち上がろうとしている姿。それが私のすぐ側にいましたよ。あとは、みんなバタバタ倒れていた。
確か、有楽町の駅の所で75人死んで。あと負傷者はずいぶんいたわけですから。その死んだ中に僕の回りにいた人が含まれているでしょう。
僕自身は、左手が全然きかないんです。ジーンとして、耳は両鼓膜が完全に破れているんです。手は骨折です。だから、手が全然変で、おかしいなと思いながら「よっこらせ」と起き上がったんです。
僕が起き上がった時に、オーバーコートを着て、肩から本などを入れた雑嚢をかけて、帽子をかぶってマスクをして、眼鏡をかけて。それが何もないんですよ。帽子ももちろんない。眼鏡もない。マスクも吹っ飛んじゃって。雑嚢がない。肩からかけたやつが、吹っ飛んじゃって。それで、コートがカギ裂きで裂けているんですよ。血がべったりついている。
救護隊が、どんどんどんどん人を運んでいて、僕は倒れていたから後回しにされたんですが、やおら起き上がったら、すぐに来てくれました。すぐに、担いで、サポートしてもらいながら、当時、有楽町の向こう側に報知新聞の診療所があって、そこに連れて行ってくれて、それで、治療してもらった後は、歩いて帰ったんです。ヨロヨロしながら、有楽町から出て新橋まで。電車はもちろん、全部ストップですから。確か山水楼という中華料理なんか燃えちゃって。銀座通り通れませんから、裏側通って新橋へ出たんです。
新橋は山なりの人がいましたけど、電車は折り返し運転。新橋から向こうの横浜の方へ。それでどうにかやっと人が譲ってくれて、割り込んで、大森駅まで。僕の家は大森駅ですから。大森駅まで来て、とぼとぼとぼとぼ家まで歩いて帰ってきたんです。
有楽町の空襲で生き残って、下手したら死んでますよ。戦争で野戦もありましたから、死なないで、やっと帰ってこられて、また運動ができて、勉強も大学に戻れて、運動ができて、幸せだなって思いました。
二度とあのような事は起きてほしくなです。何でもない人があんな事になって・・・。

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