掲載日:2023年1月18日

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「お寺での集団疎開」 福田 錦二

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疎開先での暮らし

本堂にみんな雑魚寝していましたから、非常に寂しさと不安がありました。
みんな泣いていましたよ。最初の一週間はひどいものでした。まして、女の子がシクシク泣いていると、それを聞きますと、余計に布団かぶって、ジーンと来るものがありました。
お掃除があって、それが終わると朝食。この朝食が、まあ、ひどいものだった。おかゆです。その中にサツマイモが入っていました。
夜は、それでも疎開した連中に魚屋がいましたので、比較的、お魚は送ってきてくれたようです。もちろん、ひとりに一匹つくわけではなく半分ずつにしたり。そのような状況でしたので、空腹は埋められませんでした。
ずるい考えでしたが、農家に顔を出してお手伝いして、自分の食べる物を頂いたりもしました。印象に残っているのは、冬場に麦踏みをよくやりました。
「まあ、何か食べていけや」って、ご馳走になったのがひとつの楽しみでした。
授業は本堂の廊下でやりました。週に一回は桶川の南国民学校へ通いました。学校へは30分くらい歩いて行きました。冬、雪の日でも靴を履いて行ってはいけないと。いわゆる素足に下駄を履いて登校したわけです。
長靴を持ってた人が何人かしかいなかったので、結局、長靴で行く連中と運動靴で行く連中とではいけないということでした。その代わり、本当にかじかんで感覚がほとんどなくなりました。あの経験だけは今でも忘れられません。
それでも学校に着く頃には、ポッポしちゃうんですよ。

地元の子どもたちとの関係

やっぱり、子ども心にけんかもできませんでした。けんかをふっかけられてきても、我々の場合には黙っちゃう方が多かったし。
服装そのものは確かに違いました。我々は、冬場でもセーター着込んだりしましたが、田舎の人たちはシャツ姿だったり、自分たちの方が良い生活していたかなというのは、子ども心に分かりました。ただ体力的には非常に衰えていました。体育をした場合には、非常に力の違いが出ました。
勉強は3時間か4時間しかしていませんでした。後は強制的に農家にお手伝いに行かされました。個人的にやったのとは別に。その時は無報酬ですから。収穫時にはいろいろなものをカゴに入れたり、畑に出て行って、ネギを抜いてみたり。決して、楽しいとは思いませんでした。
冬場はみんなアカギレになったり、それから、夏はずいぶん汗もかいたり。
私は、ひどいアカギレで、大体が荒れ性だったせいもありますが、足は本当にひどいものでした。

子ども同士の確執

やっぱり、強い人間と弱い人間がおりますから、それで男と女の共同生活ですから不服もありました。面会に来る人が結局全員ではありませんから、一月に一回来る親もいましたし、その時に来た人に対して、妬みみたいなものは常にありました。
配給のものを取り上げてみたり、殴り合いのけんかもあったし、それから、本堂の隅で泣いていたり。でも、不思議なもので泣いていてもそいつをまたいじめようということはなく、誰かそいつをかばう人間がおりました。
共同生活の中で生まれたお互いが助け合う精神じゃないですが、そういうことが生まれたことは、良かったのではないかと思います。

疎開先でお世話になったみなさんへ

寮母さん、それから、確か村長さんだと思いますが、関根さんとおっしゃる方、親身になって本当に優しくしていただきました。
お腹を壊したり、おできとかができたり、生栗を食べたりていたせいでしょうけど、その時も手当を優しくしてくださいました。
本当に、当時我々に接して下さった寮母さん、それから村長さんはじめ、お寺さんのみなさん、本当に感謝しています。ありがたいと思いました。
それだけ、子ども心に思うのは、父母とは違う愛情を注いでくださったのだと感じます。

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