長崎屋跡(ながさきやあと)

掲載日:2023年7月20日

ページID:4297

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長崎屋『画本東都遊』葛飾北斎画の画像
長崎屋『画本東都遊』葛飾北斎画

種別

区民史跡

所在地

日本橋室町四丁目2番地(日本橋室町四丁目4番10号)

登録年月日

平成13年4月1日

登録基準

ニ、屋敷跡、町屋跡、居宅跡等

広報紙コラム「区内の文化財」より(平成28年12月21日号掲載)

嘉永6年(1853)、アメリカ海軍東インド艦隊の艦船4隻を率いるペリー司令長官兼遣日特使は、フィルモア大統領の親書(友好・通商・石炭と食料補給・難破民の保護などを要求する内容で、親書の授受は九里浜)を携えて浦賀に来航しました。圧倒的な規模・戦力を備えた黒船の来航は、江戸幕府が長らく敷いていた排他的な鎖国政策を解く大きな転機となりました。
日本には、ポルトガル人の種子島漂着(天文12年〈1543〉、前年の説あり)以降、アジア市場へ進出する西欧諸国(ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスなど)が平戸・長崎に来航しています。特に、ポルトガル(根拠地マカオ)やスペイン(根拠地マニラ)商船との南蛮貿易(日本と中国・南方との中継貿易)は、16世紀中期から約100年にわたって展開されました。
しかし、貿易商・宣教師が伝える西洋文化はキリスト教の布教と一体化していたため、幕藩体制の強化を進める江戸幕府とは相いれず、寛永期(1624から1644)にはキリスト教禁教と貿易統制が急速に進みました。奉書船以外の海外渡航禁止、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国禁止、ポルトガル船の来航禁止、長崎港内に築造した出島(約4千坪の扇形埋立地)へのオランダ人の移住などの法令を幕府は次々と発布し、寛永18年(1641)以後の定期的な貿易は中国(明朝・清朝)とオランダ商人に限定されました。
西洋で唯一通商を許可されたオランダは、長崎奉行管轄下の出島に商館(オランダ東インド会社の日本支店)を移設(平戸から)し、出島がオランダ商船の発着や商館員の居住地となりました。なお、カピタン(オランダ商館長)と随員を含む一行は、年1回(寛政2年〈1790〉から4年に1度、計166回に及ぶ)貿易の継続を謝して江戸参府(将軍への拝謁・拝礼と献上物呈上など)旅行を行い、5都市6軒の阿蘭陀宿(江戸長崎屋・京海老屋・大坂長崎屋・下関伊藤家または佐甲家・小倉大坂屋)に止宿しました。
江戸では本石町三丁目(現在の日本橋室町四丁目4番10号付近)の薬種屋・長崎屋源右衛門方が定宿となり、時折訪れるオランダ人に物見高い江戸市民は好奇のまなざしを向け、日本の蘭学者・医師などは直接交流や交換教授の場を求めて数多く訪問したといわれています。
中央区総括文化財調査指導員
増山一成

お問い合わせ先

教育委員会事務局図書文化財課郷土資料館

〒104-0041 新富一丁目13番14号

電話:03-3551-2167

ファクス:03-3551-2712

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