佃島渡船場跡(つくだじまとせんばあと)

掲載日:2023年7月20日

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佃島渡船場跡に残る石碑の写真
佃島渡船場跡に残る石碑

種別

区民史跡

所在地

  • 佃一丁目11番4号(佃公園内)
  • 湊三丁目18(佃大橋橋詰)

登録年月日

平成2年4月1日

登録基準

ト、街道、番所跡、木戸跡、渡舟場跡、その他産業、交通、土木に関する遺跡

広報紙コラム「区内の文化財」より(平成23年10月21日号掲載)

今から約50年前まで、現在の佃一丁目と湊三丁目の間を運航していた隅田川の渡し船がありました。船が発着した両岸の渡船場の跡地には、東京市が設置した「佃島渡船」の石碑が残されており、往時を知ることができます。
「佃の渡し」と呼ばれたこの渡船は、佃島(現在の佃一丁目1~10番)が築かれた江戸時代から、昭和期まで約320年間続いた渡船でした。
佃島は、摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区)の漁師たちが、大川(隅田川)河口付近の干潟百間(約180メートル)四方を拝領し、正保元年(1644)に埋め立て造成して築いたといわれています。そして翌年の正保2年、佃島の人々が江戸市中へ行くための交通手段として、佃の渡しが始まりました。
当初は、日常生活に必要な交通手段として始まった手こぎ渡船でしたが、島内にある住吉神社への参詣や夏に行われる祭の見物、さらには、藤の名所として知られていた同社境内の藤の花見などで来島する人々に利用され、江戸時代を通じてにぎわいました。
佃の渡しは、島民の運営で対岸の船松町(現在の湊三丁目)との間を不定期に往復していましたが、明治16年(1883)に大倉組の経営へと移って定期運航となりました。この頃の渡し賃は、一人五厘・二人持ちの荷物一個一銭であったため、人々から”五厘の渡し”と呼ばれていました。大正15年(1926)3月からは東京市営の渡船となり、昭和2年(1927)3月には渡船場の諸施設が完成して汽船による無料の曳船渡船が開始されました。この時、東京市は曳船渡船の開始を記念して渡船場に二基の石碑を建立しました。これが現在の石碑です。
かつての隅田川には、中央区に関わる渡船だけでも千歳・安宅・中洲・大川口・石川島・佃・月島・勝鬨などの渡しがありましたが、交通量の増加や交通事情の変化に対応するために橋梁が次々に新設され、次第にその役目を終えて廃止されていきました。
佃島渡船は隅田川に残る最後の渡船として、昭和39年(1964)に佃大橋が架橋されるまで存続しました。江戸から昭和にいたる長い歴史に終止符を打ちましたが、人々の生活を支えてきた舟運の歴史を伝える貴重な史跡です。
中央区主任文化財調査指導員
増山 一成

お問い合わせ先

教育委員会事務局図書文化財課郷土資料館

〒104-0041 新富一丁目13番14号

電話:03-3551-2167

ファクス:03-3551-2712

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