新富町躍金楼(てっきんろう)店舗

掲載日:2023年7月20日

ページID:8207

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新富町躍金楼店舗の画像
新富町躍金楼店舗

種別

国登録有形文化財 建造物

所在地

新富一丁目10番4号

広報紙コラム「区内の文化財」より(令和4年11月21日号)

中央区新富一・二丁目地区は、街区の北側に八丁堀(かつては東西に八丁堀川〈桜川〉が流れていた)、西側と南側には首都高速都心環状線(かつての築地川の跡)が走っており、堀で囲まれていた往時をしのばせます。また、南側の都心環状線(築地一・二丁目の街区)の地下には東京メトロ有楽町線の新富町駅があり、明治4年(1871)から昭和46年(1971)まで使用されていた旧町名「新富町」が駅名として残されています。
江戸時代には大部分が武家地で占められていた新富地区は、明治に入って隣接する南東エリア(現在の明石町・湊一帯)に築地外国人居留地が開設されたことに伴い、新島原(しんしまばら)遊郭が設置されました(明治4年までの短期間に形成された花街(かがい))。遊郭廃止後、跡地に新たな町「新富町」が起立すると、明治5年に浅草猿若町(さるわかまち)(現在の台東区浅草六丁目の一部)から歌舞伎劇場「守田座」が移転してきました。
なお、開場後は町名にちなんで「新富座」と改称し、周辺一帯は芝居茶屋・俳優の居宅・料理仕出し店・道具方・囃子(はやし)方まで、多くの歌舞伎関係者が住む芝居町(しばいまち)として繁栄しました。
現在、新富一丁目10番街区の一角に店舗を構える割烹(かっぽう)料理店・躍金楼は、花街・芝居町として華やかににぎわった明治期の新富町で開業した歴史をもちます。明治6
年(1873)に創業した躍金楼は、当時の36名店のうちの一つとして浮世絵師・豊原国周(とよはらくにちか)(1835~1900)による「開化三十六会席(かいせき)新富町躍金楼」(明治11年〈1878〉)にも描かれています。また、浮世絵師・月岡芳年(つきおかよしとし)(1839~1892)の「皇都(こうと)会席別品競(べっぴんくらべ)新富町躍金楼」(明治11年)にも、枝ぶりの良い松の木が立つ躍金楼の中庭が描かれています。
なお、創業当時の店舗は、新富町内の西寄りの区画に位置していたとされ、戦後の昭和24年(1949)頃に現在地へ店舗を構えるようになったようです。
登録有形文化財である新富町躍金楼店舗は、木造2階建ての主屋(おもや)(昭和24年頃の建築)と増築された木造(外壁面の一部はコンクリートブロック造)2階建ての部分(昭和35年〈1960〉の増築)で構成されています。なお、同店舗新築の際には、以前から同地(敷地の奥)に立っていた土蔵造りの蔵を取り込むかたちで建てられたようです。建物を見てみると、瓦葺(ぶ)きの屋根(切妻造(きりづまづく)りの妻入(つまい)り(建物の妻側に出入口があること)の両側に下屋(げや)(主屋の外壁に接して設けた小屋根)を出していることがわかり、北側には別棟で居室が取り付けられた構造となっています。
外観の特徴は、建物の正面である東側の表通りと南側部分に黒板塀が設けられている点です。特に、出入口となる正面には、腰部を切石張りとした門塀(もんぺい)を構えるとともに、奥へ進むと主屋のわずかな空間に半間程度の風情のある前庭が配されています。また、内部の各部屋には、部屋名(「うさぎの間」「ひさごの間」「竹の間」など)と合
うような手の込んだ意匠や設(しつら)えがあり、料亭建築の特徴である客動線に配慮した間取り(廊下から座敷が見えないような工夫)もみられます。
角地に立つ同店舗は、伝統的な木造料亭の姿を留めながら、旧花街・芝居町として栄えた新富地区の歴史を伝える希少な歴史的建造物となっています。
中央区教育委員会 学芸員
増山一成

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お問い合わせ先

教育委員会事務局図書文化財課郷土資料館

〒104-0041 新富一丁目13番14号

電話:03-3551-2167

ファクス:03-3551-2712

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