よし梅芳町亭(よしうめよしちょうてい)

掲載日:2023年7月20日

ページID:8209

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よし梅芳町亭の画像
よし梅芳町亭

種別

国登録有形文化財 建造物

所在地

日本橋人形町一丁目5番2号

広報紙コラム「区内の文化財」より(令和4年9月21日号)

日本橋人形町地区を含むエリアは、江戸時代初期に幕府の許可を得た庄司しょうじ甚じん右え衛門もんが遊郭の造営(元吉原〈1657年の明暦の大火で焼失して移転〉)を行って傾城けいせい町まちの成立をみた時期や、幕府公認の歌舞伎興行を行う芝居小屋(中村座・市村座)を中心に芝居町が形成された時期もあります。さらに、幕末から明治・大正・昭和にかけて芸妓が集住する花街かがいとして繁栄した時期もあり、同地区一帯は古くから遊興地・商業地としての歴史を有するところです。

江戸時代初期に遊郭が置かれた辺り一帯は、葭よしが生い茂っていた場所であったことから葭原と称されていましたが、傾城町などの造成後に吉原(元吉原)へと改めたとも言われています。また、葭町(芳よし町ちょう)と俗称されていた元吉原の南西エリアは、明治期の正式起立から昭和55年(1980)に町名改正が行われるまで「芳町」の町名(改正後は日本橋人形町一丁目・同三丁目)が用いられてきました。

なお、現在の日本橋人形町地区には、太平洋戦争末期に受けた空襲による被害を部分的に免れた場所もあり、それ故に花街としての歴史性と風情が今でも漂うまちとなっています。

今回の文化財は、空襲被害を免れた日本橋人形町一丁目5番街区の路地に面して立つ昭和初期(昭和元年~同2年頃)に創建された木造建造物です。当該建物は創建から今日に至る過程で改修・改造の手が入っていますが、当初の構造を大きく変えることなく実施されており、現在は日本料理の店舗「よし梅芳町亭」として用いられています。

間口5間(約9メートル)・奥行4間半(約8メートル)ほどある木造瓦ぶき(切妻造きりづまづくり・平入ひらいり)2階建ての当該建物は、北側の路地に面して敷地間口いっぱいに建てられています。路地に面する北側正面(一部を黒板塀で囲う)の外壁は、後の改修によってモルタル塗装が施されていますが、本来は東・西・南の各面と同様に水切れが良い押おし縁ぶち下見したみ板張いたばり(下見板〈横張り板の下端が手前に出て見える板〉の継ぎ目や端部を押縁〈細長い部材〉で押さえる)であったと思われます。なお、わずかながら見ることのできる南面の外観からは、伝統的な木造和風建築のたたずまいを感じ取ることが出来ます。

また、内部は天井板や欄間らんまなどの化粧に上質な材を用い、床・下地窓に数寄屋風の意匠を整えるなど、昭和初期にみられる和風住宅のデザイン・材料・技術がよく示されています。なお、1階部分の調理場(玄関脇の台所と続きの四畳半を改造)・廊下(続き座敷の中央に廊下を通して二部屋に改修)・トイレ(風呂場を改造)、2階の大きな続き座敷(中央廊下をつぶして部屋に組み込む)や南側西隅に部屋の増築などがみられますが、いずれも当初の構造を大きく変更することなく改修・改造が行われています。

築95年を超える当該建物は、中央区生まれの女優・花柳はなやぎ小菊こぎく(1921~2011)が戦前から住居として使用していた時期があり、その後は所有者の変更を伴いながら原形を損なうことなく大切に維持されてきました。建物の名称は、昭和2年(1927)に日本料理(江戸料理)店を創業した初代(高野うめ)が自身の名と住んでいた当時の町名から「よし梅」を店名とし、二代目が当該建物を取得・改修して現在に至っています。

旧町名・芳町の響きと風情ある昭和初期の木造建築とが相まって当地を艶やかに彩っています。

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教育委員会事務局図書文化財課郷土資料館

〒104-0041 新富一丁目13番14号

電話:03-3551-2167

ファクス:03-3551-2712

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