清洲橋(きよすばし)

掲載日:2023年7月20日

ページID:4245

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清洲橋の画像
清洲橋

種別

国指定重要文化財 建造物

所在地

日本橋中洲から江東区清澄一丁目

広報紙コラム「区内の文化財」より(令和3年8月21日号)

日本橋地域の東部を流れる隅田川は、両国橋から新大橋にかけて緩やかに曲がり、ここから清洲橋までの区間で大きく蛇行した流路をとって流れています。また、清洲橋のすぐ上流には、江東区を東西に流れる小名木川(おなぎがわ)(江戸時代初期に下総国本行徳(しもうさのくにほんぎょうとく)〈現在の千葉県市川市〉特産の塩を運ぶ目的で開削した運河)の合流ポイントもあります。
歴史をさかのぼると、清洲橋が架かる日本橋中洲の辺りは、江戸時代に三派(みつまた)(三叉・三股など)と称される観月納涼(かんげつのうりょう)の名所として知られていました。江戸の地誌『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』にも「新大橋の下(しも)分流の所を云(いう)浅草川と箱崎の間の流(ながれ)との分れ流るる所なれハなり此所(このところ)を別れの淵(ふち)と云(いう)ハ汐(しお)と水とのわかれ流るる所故(ゆえ)にいふ此所(このところ)ハ月の名所なり」と記されています。
また、「因(ちなみ)に云(いう)明和八年辛卯(かのとう)中流を堙埋(いんまい)して人居(じんきょ)とし中洲と称せりされと洪水の便(たより)あしきとて寛政元酉(とり)年に至り復元(またもと)の如く(ごとく)の川に掘立らる(ほりたてらる)」とあるとおり、大川(隅田川)河口部の土砂堆積地であった中洲は、洪水被害を避ける目的から埋め立てと取り払いが繰り返されてきました。
江戸時代以来、当該地では渡し舟(中洲の渡し)を利用して隅田川両岸の交通が行われてきましたが、関東大震災後に実施された帝都復興事業の一環で昭和3年(1928)3月に新橋梁(きょうりょう)が創架(そうか)されました。架橋当時、深川区清住町と日本橋区中洲町を結ぶ橋梁であったため、各町名の一字をとって清洲橋と名付けられました。橋梁の設計・施工は、太田圓三(おおたえんぞう)(内務省復興局土木部長)と田中豊(同局橋梁課長)の設計・施工方針に基づき、鈴木清一(同局技師)が上部構造の主設計を担当し、釘宮磐(同局技師・隅田川出張所長)を中心に建設工事(橋梁各部の製作は株式会社川崎造船所など複数社)が進められました。
橋長186.2メートル・幅員25.9メートル(有効幅員22.0メートル)の規模を有する清洲橋は、世界的に見ても珍しい三径間(さんけいかん)の自碇式補剛吊橋(じていしきほごうつりばし)(吊構造材(つりこうぞうざい)の吊鎖(ちょうさ)〈ケーブルではなく高張力鋼(こうちょうりょくこう)のチェーン部材〉を補剛桁(ほごうけた)の両端部に定着させた形式)となっています。特に、塔柱(とうちゅう)から吊るされた(つるされた)放物線状の吊鎖(ちょうさ)(等間隔に配された吊材(つりざい)で主桁(しゅげた)と繋ぐ(つなぐ))によって、清洲橋特有の曲線的で優美な外観が形成されています(ライン川に架かるドイツの吊り橋・ヒンデンブルグ橋〈戦禍で現存せず〉がモデル)。
なお、橋梁を支える下部構造(橋脚・橋台)は、土砂堆積地としての地質条件(軟弱地盤)に対応するため、ニューマチックケーソン(空気潜函(せんかん)工法)を用いて施工し、平均潮位下約24メートルから26メートルまで埋め込んだ鉄筋コンクリート造の構造物(潜函)を基礎として築造されました。
最先端の橋梁技術を駆使して立地条件の克服と耐震性能の向上を図り、近代的意匠の橋梁美を保ち続けている清洲橋は、90年以上経過した現在も道路橋として機能しています。
中央区教育委員会 学芸員
増山一成

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