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「区のおしらせ ちゅうおう」 令和2年6月11日号

区内の文化財

門跡橋(もんぜきばし)の親柱(おやばしら)及び高欄(こうらん)

区民有形文化財 建造物 築地三丁目17番8号先

門跡橋の親柱部分
▲門跡橋の親柱部分

築地地区を囲んでいた掘割・築地川は、当該地区を複数の区画に分けるように流れていました。かつては、築地一丁目から四丁目を囲む掘割、築地五丁目(旧中央卸売市場)一帯を囲む掘割、築地六・七丁目と隅田川に面する明石町の一部を囲む掘割がありました。こうした掘割は、明暦3年(1657)の大火以降に造成された「築地」の埋め立てに伴って、順次造られたものでした。戦後まであった築地川は、東京オリンピックに向けた道路整備の一環で首都高速道路の用地となり、昭和から平成と段階的に埋め立てが進められて現在に至っています。なお、築地川に架橋された橋には、改修の上で現在も利用されている関東大震災後の復興橋梁(きょうりょう)(三吉橋(みよしばし)・亀井橋・采女橋(うめねばし)・千代橋(せんだいばし)など)や親柱・高欄の一部を記念的に残している橋(門跡橋・海幸橋・備前橋・堺橋・暁橋など)が、ほぼ架橋当時の位置に保存されています。
今回の文化財は、築地川南支川(現在の区立築地川公園(外部サイトへリンク)・区営築地川第二駐車場・築地魚河岸小田原橋棟の立つ場所まで南西に延びる掘割)に架橋されていた門跡橋の構築物です。築地本願寺の東南位置にあった門跡橋は、関東大震災後の新設復興街路・幹線4号(現在の晴海通り)上に架橋した復興橋梁の一つでした。
昭和3年(1928)の架設時には、築地三丁目と南小田原町とを結ぶ鉄筋コンクリート橋「築南橋」として橋名が付けられましたが、築地本願寺の門徒代表以下59人による名称変更の陳情をもって「門跡橋」と改称された橋でもありました。江戸時代以来、築地本願寺と多数の寺中子院が立ち並ぶ寺町を形成していた築地地区は、帝都復興区画整理事業によって町の様相が大きく変化しました。それ故に、新架橋の橋に築地本願寺(西本願寺)を意味する「門跡」を冠した名を付けて歴史を継承してきた先人たちの思いが強く感じられます。
現存する門跡橋の一部は、正方形の基壇上に四角柱の形状(高さ約122cm・幅約119cm・奥行約118cm)を呈した親柱1基(花崗岩製)と橋の縁にあった高欄(花崗岩およびコンクリート躯体にタイル張り)部分です。このうち、花崗岩製の親柱には橋梁の名称を示す「門跡橋」の橋名板と竣工年月を記した「昭和三年六月 復興局建造」と陽刻された銅板が設置されています。 この建造物は、掘割の埋め立てや道路整備に伴って希少となった復興橋梁の歴史を伝えるとともに、築地地区の歴史にゆかりの深い文化財です。

中央区総括文化財調査指導員
増山一成

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